【感想】吉岡太朗『歌集 ひだりききの機械』の〈手書き〉の定型観
- 2014/10/22
- 00:16
吉岡太朗さんの〈手書き〉についてはずっと考えている。
印刷文字メディアは無意識に〈きちんと〉した定型を前提とする。
定型が印刷文字メディアの整然さに宿っているようにすら思うのだが、吉岡さんの溶解するような手書きにおいてはそうしたメディアの身体的無意識が浮き彫りにされているようにも思う。
文字 対 マス目の1対1対応が崩れ、文字はもう一つの文字へと侵食し、分数的な文字のありかたが定型の印刷文字メディアによる形式性を溶かしていくのではないかと。
たとえばマンガを描くときにマンガのセリフを絵のすきまに描いてみるとわかるのだが、〈手書き〉には〈手書き〉しかない定型の論理がある。
手書きは整然としていないがために、スパイラルな運動性ももつことができ、そのことによって螺旋状の定型観さえ可能になる。
升目思考ではなく、余白思考になるのである。
そういう〈手書き〉の論理はたとえばマンガのコマの中や外にちょこちょこっと書かれた作者による注解やつっこみ、もしくは視覚化されたマンガ特有の擬音などにも見いだせたりするんじゃないかと思う。
手書きをそのままのかたちでいまだ活かしているのがマンガの世界である。文字の世界ではないのに。
そう考えると、ちょっと不思議な気もする。
マンガの方が文字のコードが多層的なのである。
マンガが文字性を生かしている。
なぜ、だろう。
岩下慶子『ボッコンリンリ』
鈴木翁二『まばたきブック』
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