【感想】サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
- 2014/05/07
- 21:41
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘
【So, who are you?-聴き手:うんこ、語り手:←いまここ-】
穂村弘さんの有名な短歌です。
この歌をかんがえていたときに、この歌のなかでうたわれている「うんこ」が「サバンナの象の」と限定修飾されていることが大事なのではないかと思うのです。
語り手が「うんこ」を限定的に修飾しているということは、「うんこ」に対して、〈このうんこ〉はわたしの話を聞くに値するが、〈あのうんこ〉はわたしの話を聞くに値しないと判断しているということではないかとおもうのです。(サバンナの)(象の)うんこ、と二重に限定修飾されているのも大事だとおもうんです。
まず「うんこ」は「サバンナの」と〈場所〉が限定され、次に「象の」と〈属性〉が限定されます。
ただ問題は、そこまで思い入れを語り手がもったとしても、「うんこ」には「聞いてくれ」といったような願望を果たすための言語的コミュニケーションが通じないことです。
しかしこの語り手はそれをわかっているために、「だるいせつないこわいさみしい」といったような言語化できない感情を並べることにつとめています。
「だるい」も「せつない」も「こわい」も「さみしい」も言語で分節しても分節しつくせないような領域にある感情表現です。
つまり、この短歌の語り手の屈折したおもしろさは、語り手が「聞いてくれ」と表象の望みを賭けつつ、聴き手の対象はこんなに具体的に分節的にはっきりと自覚しているのに、いざその「聞いて」ほしい語りの段階になると、「だるいせつないこわいさみしい」といった抽象的な非分節表現に走ってしまうことなのではないかとおもうのです。
だから、聞いて欲しい対象はわかっていて、どんなふうな語り方をすればいいかその形式もわかっていて(この歌は短歌としての定型をきっちり厳守し、感情表現もすべて「い」の脚韻も踏む)、しかしその語りの「聞いてくれ」といういちばん核心の内容面にはいると語り手は「だるいせつないこわいさみしい」といった普遍的なにんげんの感情表現に逃げてしまう。
この短歌はそういった語り手が語ろうとするせつな、〈逃げだそう〉とするおもしろさがあるのではないかとおもうのです。
つまり、「聞いてくれ」と語り手がほんとうに呼びかけているのは、逃げ出そうとする語り手じしんなのではないかとおもうのです。なぜなら、語り手は、すでに「うんこ」を聴き手に具体的に選んだ時点で、おおかたはじぶんの「話させてくれ」とおもっている内容を回避しているからです。しかしそれでも「サバンナの象の」と具体化することで、語り手は語り手のじぶんとしての思いは表象しています。「話させてくれ」というきもちも。
もしその具体化ができず、聴き手も一般化してしまった場合は、語り手のうたはこんなかたちになったはずなのです。すなわち、
海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか
【So, who are you?-聴き手:うんこ、語り手:←いまここ-】
穂村弘さんの有名な短歌です。
この歌をかんがえていたときに、この歌のなかでうたわれている「うんこ」が「サバンナの象の」と限定修飾されていることが大事なのではないかと思うのです。
語り手が「うんこ」を限定的に修飾しているということは、「うんこ」に対して、〈このうんこ〉はわたしの話を聞くに値するが、〈あのうんこ〉はわたしの話を聞くに値しないと判断しているということではないかとおもうのです。(サバンナの)(象の)うんこ、と二重に限定修飾されているのも大事だとおもうんです。
まず「うんこ」は「サバンナの」と〈場所〉が限定され、次に「象の」と〈属性〉が限定されます。
ただ問題は、そこまで思い入れを語り手がもったとしても、「うんこ」には「聞いてくれ」といったような願望を果たすための言語的コミュニケーションが通じないことです。
しかしこの語り手はそれをわかっているために、「だるいせつないこわいさみしい」といったような言語化できない感情を並べることにつとめています。
「だるい」も「せつない」も「こわい」も「さみしい」も言語で分節しても分節しつくせないような領域にある感情表現です。
つまり、この短歌の語り手の屈折したおもしろさは、語り手が「聞いてくれ」と表象の望みを賭けつつ、聴き手の対象はこんなに具体的に分節的にはっきりと自覚しているのに、いざその「聞いて」ほしい語りの段階になると、「だるいせつないこわいさみしい」といった抽象的な非分節表現に走ってしまうことなのではないかとおもうのです。
だから、聞いて欲しい対象はわかっていて、どんなふうな語り方をすればいいかその形式もわかっていて(この歌は短歌としての定型をきっちり厳守し、感情表現もすべて「い」の脚韻も踏む)、しかしその語りの「聞いてくれ」といういちばん核心の内容面にはいると語り手は「だるいせつないこわいさみしい」といった普遍的なにんげんの感情表現に逃げてしまう。
この短歌はそういった語り手が語ろうとするせつな、〈逃げだそう〉とするおもしろさがあるのではないかとおもうのです。
つまり、「聞いてくれ」と語り手がほんとうに呼びかけているのは、逃げ出そうとする語り手じしんなのではないかとおもうのです。なぜなら、語り手は、すでに「うんこ」を聴き手に具体的に選んだ時点で、おおかたはじぶんの「話させてくれ」とおもっている内容を回避しているからです。しかしそれでも「サバンナの象の」と具体化することで、語り手は語り手のじぶんとしての思いは表象しています。「話させてくれ」というきもちも。
もしその具体化ができず、聴き手も一般化してしまった場合は、語り手のうたはこんなかたちになったはずなのです。すなわち、
海の生き物って考えてることがわかんないのが多い、蛸ほか
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