【感想】白靴や恋人とその恋人と 山田露結
- 2014/10/24
- 12:00
白靴や恋人とその恋人と 山田露結
【n人いる!】
『ウラハイ』の「【レコジャで一句】白靴や恋人とその恋人と 山田露結」からの山田露結さんの句です。
レコードジャケットから詠まれた句なので、レコードジャケットから読むのが〈正しい〉と思うんですが、今回は〈登場人物〉と〈関係性〉という観点からこの句についてかんがえてみたいとおもいます。
斉藤斎藤さんがNHK短歌で、短歌においては登場人物が多すぎるとしまりがなくなってしまう、というようなことをいっていたんです。
短詩においては定型のなかに実数としている人間がトゥーマッチだと、とたんに、ぐずついてしまう。
穂村さんの有名な歌に、
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
がありますが、これって登場人物は〈ひとり〉だとおもうんです。
〈恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死〉を思う〈わたし〉というふうに〈わたし〉ひとりがずらずらと遠くて・近い〈関係性〉に出会っている歌。
そういうふうにも読むことができるのではないか。
掲句の露結さんの句は「白靴」と「恋人」をどう解釈するかで読みがわかれていく句だとおもうんですが、今回は〈関係性〉の観点から読んでみます。なぜなら、「恋人」という言葉がそもそも関係的なことばであり、関係性によって定められることばだからです。
そこで、露結さんの句の「恋人とその恋人と」を、語り手の〈わたし〉が「恋人」から「その恋人」への連鎖としての関係性にであってしまっている句だと解釈してみます。
季語「白靴」がポイントだと思っていて、「白靴や」と語り手が〈靴〉に気がついたことからこの〈関係性〉の句がはじまっています。
〈靴〉っていうのはそれ自体、いろんな喩になります。
メタファーとして新しい出発や閉ざされた道になるかもしれないし、メトニミーとしては、靴は履いていたそのひとの一部となり、わたしの知らない誰かがここにいまいることの換喩にもなる(換喩とは、眼鏡をかけている人間を、「メガネくん」と、全体に与する一部でたとえるレトリックです)。
だから、「白靴や」と語り手が靴で直覚したときに、ずらずらと〈恋人と、恋人と〉というふうな関係性の連鎖が起きる。
そういう〈わたし〉が関係性と遭遇している句としてもひとつ読めるのではないか(ただこの句はいろんな解釈が可能な句なのであくまでひとつの読みとして)。
「白靴」という季語はよく「汚れ」とともに句がつくられたりもするんですが、その意味で〈経験値〉とも関係してきます。「白靴や」で句を切って空間を形成した語り手は、これから新しい関係の連鎖にはいっていくかもしれない。そこにはこれから汚されるかもしれない〈白さ〉があります。歩まなければならないかもしれない道も。恋人が連鎖するときどういった未知と既知の白黒の連鎖が起きていくのか。
だからこの句も穂村さんの歌のように、関係性の連鎖を軸に据えた句としても読むことができるのではないかと思います(「恋人」をどう取るかでn人は変わってくるのであくまでひとつの解釈として)。
まとめてみます。
短詩においては、登場人物が多すぎるのはぐずついてしまうのだけれど、〈関係性のn連鎖〉なら持ち込むことができる。
むしろそうした〈わたし〉からの〈関係性の連鎖〉を短詩は〈発見〉してきたところがあるのではないかともおもっています。その形式の〈短さ〉というデフォルト設定から。
ちなみに次のようなやはり〈関係性の連鎖〉を詠んだ句があります。これもある意味、〈恋人の/と恋人〉句かもしれません。
ここで問われているのは、たまに揉んでいるn人と、たまに揉まれているn人と、たまに揉んでいないn人と、たまに揉まれていないn人の〈関係性〉です。
たまに揉む乳房も混じり花の宴 喪字男
【n人いる!】
『ウラハイ』の「【レコジャで一句】白靴や恋人とその恋人と 山田露結」からの山田露結さんの句です。
レコードジャケットから詠まれた句なので、レコードジャケットから読むのが〈正しい〉と思うんですが、今回は〈登場人物〉と〈関係性〉という観点からこの句についてかんがえてみたいとおもいます。
斉藤斎藤さんがNHK短歌で、短歌においては登場人物が多すぎるとしまりがなくなってしまう、というようなことをいっていたんです。
短詩においては定型のなかに実数としている人間がトゥーマッチだと、とたんに、ぐずついてしまう。
穂村さんの有名な歌に、
恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 穂村弘
がありますが、これって登場人物は〈ひとり〉だとおもうんです。
〈恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死〉を思う〈わたし〉というふうに〈わたし〉ひとりがずらずらと遠くて・近い〈関係性〉に出会っている歌。
そういうふうにも読むことができるのではないか。
掲句の露結さんの句は「白靴」と「恋人」をどう解釈するかで読みがわかれていく句だとおもうんですが、今回は〈関係性〉の観点から読んでみます。なぜなら、「恋人」という言葉がそもそも関係的なことばであり、関係性によって定められることばだからです。
そこで、露結さんの句の「恋人とその恋人と」を、語り手の〈わたし〉が「恋人」から「その恋人」への連鎖としての関係性にであってしまっている句だと解釈してみます。
季語「白靴」がポイントだと思っていて、「白靴や」と語り手が〈靴〉に気がついたことからこの〈関係性〉の句がはじまっています。
〈靴〉っていうのはそれ自体、いろんな喩になります。
メタファーとして新しい出発や閉ざされた道になるかもしれないし、メトニミーとしては、靴は履いていたそのひとの一部となり、わたしの知らない誰かがここにいまいることの換喩にもなる(換喩とは、眼鏡をかけている人間を、「メガネくん」と、全体に与する一部でたとえるレトリックです)。
だから、「白靴や」と語り手が靴で直覚したときに、ずらずらと〈恋人と、恋人と〉というふうな関係性の連鎖が起きる。
そういう〈わたし〉が関係性と遭遇している句としてもひとつ読めるのではないか(ただこの句はいろんな解釈が可能な句なのであくまでひとつの読みとして)。
「白靴」という季語はよく「汚れ」とともに句がつくられたりもするんですが、その意味で〈経験値〉とも関係してきます。「白靴や」で句を切って空間を形成した語り手は、これから新しい関係の連鎖にはいっていくかもしれない。そこにはこれから汚されるかもしれない〈白さ〉があります。歩まなければならないかもしれない道も。恋人が連鎖するときどういった未知と既知の白黒の連鎖が起きていくのか。
だからこの句も穂村さんの歌のように、関係性の連鎖を軸に据えた句としても読むことができるのではないかと思います(「恋人」をどう取るかでn人は変わってくるのであくまでひとつの解釈として)。
まとめてみます。
短詩においては、登場人物が多すぎるのはぐずついてしまうのだけれど、〈関係性のn連鎖〉なら持ち込むことができる。
むしろそうした〈わたし〉からの〈関係性の連鎖〉を短詩は〈発見〉してきたところがあるのではないかともおもっています。その形式の〈短さ〉というデフォルト設定から。
ちなみに次のようなやはり〈関係性の連鎖〉を詠んだ句があります。これもある意味、〈恋人の/と恋人〉句かもしれません。
ここで問われているのは、たまに揉んでいるn人と、たまに揉まれているn人と、たまに揉んでいないn人と、たまに揉まれていないn人の〈関係性〉です。
たまに揉む乳房も混じり花の宴 喪字男
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