【お知らせ】「定型の檻/定型の匣/定型の瑕 矢島玖美子句集『矢島家』の一句」『週刊俳句 Haiku Weekly第392号』
- 2014/10/26
- 00:31
『週刊俳句 Haiku Weekly第392号』にて「定型の檻/定型の匣/定型の瑕 矢島玖美子句集『矢島家』の一句」という文章を載せていただきました。『週刊俳句』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
矢島さんの句のひとつの特徴に〈ドライ〉な感触があると思うんですが、それはそもそもの定型の〈ドライ〉な感じにつながっているのではないかというのが今回の文章の趣旨です。
なぜ、定型はドライなのか。
それは、定型で発話したことばの根拠がつねに定型にあるからではないか、と思っています。
ふしぎといえばふしぎだし、あたりまえといえばあたりまえなことなのですが、定型の根拠は、定型にあるとおもうのです。
それが、定型の自己循環性ではないかと。
だから、定型にはある意味、〈外〉はない。
もちろん、いろんな文脈や背景をもちこんで定型詩を読み解くことはできるんですが、それでも定型はどこかでそうした〈外〉を認めていない。
だから、定型とは、密室内にその鍵となる根拠をもつような巨大な盲目的密室なのではないかと。
たとえば、あいしています、といったとき、愛の理由をふつうは確保しなければいけないと思うんですが、それがもし定型であれば、あいしています、の根拠は、あいしています、という定型にある。
だから、定型はある意味、半永久的に自己循環する檻のようなものなのだけれど、しかしその檻を知覚したときに、はじめててにいれられる視覚もあるのではないかとおもうんです。
まるで京極夏彦の『姑獲鳥の夏』みたいに。
そんなことを、意識的/実践的に定型に対して定型から定型をとおしてかんがえている加藤治郎さんと野口あや子さんの定型を詠んだ定型詩を媒介にしながら、かんがえてみました。
『姑獲鳥の夏』において、京極堂が関口巽にむかってこんなことをいっています。
意識こそが重要だ。君がつまらん小説を読むのも、この壺を見るのも、はたまた存在しない幽霊を見るのも、意識あってこそだ。
この、意識を定型と置き換えても、ふしぎと通るようにおもいます。
定型こそが重要だ。君がつまらん小説を読むのも、この壺を見るのも、はたまた存在しない幽霊を見るのも、定型あってこそだ。
定型って、なんだろう。
このときに、おそらく、〈って〉の定義を要請する部分ではなく、〈なん〉という記述を求める部分ではなく、〈だろう〉の曖昧模糊とした領域にあるすべての記述を推量化しつづけることによって非定型的に拒みつづけるもの。
それが、定型なのではないかとおもっています。
自動改札に拒まれて嬉しい 矢島玖美子
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
矢島さんの句のひとつの特徴に〈ドライ〉な感触があると思うんですが、それはそもそもの定型の〈ドライ〉な感じにつながっているのではないかというのが今回の文章の趣旨です。
なぜ、定型はドライなのか。
それは、定型で発話したことばの根拠がつねに定型にあるからではないか、と思っています。
ふしぎといえばふしぎだし、あたりまえといえばあたりまえなことなのですが、定型の根拠は、定型にあるとおもうのです。
それが、定型の自己循環性ではないかと。
だから、定型にはある意味、〈外〉はない。
もちろん、いろんな文脈や背景をもちこんで定型詩を読み解くことはできるんですが、それでも定型はどこかでそうした〈外〉を認めていない。
だから、定型とは、密室内にその鍵となる根拠をもつような巨大な盲目的密室なのではないかと。
たとえば、あいしています、といったとき、愛の理由をふつうは確保しなければいけないと思うんですが、それがもし定型であれば、あいしています、の根拠は、あいしています、という定型にある。
だから、定型はある意味、半永久的に自己循環する檻のようなものなのだけれど、しかしその檻を知覚したときに、はじめててにいれられる視覚もあるのではないかとおもうんです。
まるで京極夏彦の『姑獲鳥の夏』みたいに。
そんなことを、意識的/実践的に定型に対して定型から定型をとおしてかんがえている加藤治郎さんと野口あや子さんの定型を詠んだ定型詩を媒介にしながら、かんがえてみました。
『姑獲鳥の夏』において、京極堂が関口巽にむかってこんなことをいっています。
意識こそが重要だ。君がつまらん小説を読むのも、この壺を見るのも、はたまた存在しない幽霊を見るのも、意識あってこそだ。
この、意識を定型と置き換えても、ふしぎと通るようにおもいます。
定型こそが重要だ。君がつまらん小説を読むのも、この壺を見るのも、はたまた存在しない幽霊を見るのも、定型あってこそだ。
定型って、なんだろう。
このときに、おそらく、〈って〉の定義を要請する部分ではなく、〈なん〉という記述を求める部分ではなく、〈だろう〉の曖昧模糊とした領域にあるすべての記述を推量化しつづけることによって非定型的に拒みつづけるもの。
それが、定型なのではないかとおもっています。
自動改札に拒まれて嬉しい 矢島玖美子
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