【短歌】うぇいうぇいと…(毎日新聞・毎日歌壇2014年10月27日・加藤治郎 選)
- 2014/10/27
- 20:19
うぇいうぇいと甥がわたしにいってくるわたしのすそをぬるくつかむ掌(て) 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014年10月27日・加藤治郎 選)
【ぷりぷりと母母母】
彼女は「もう生まれます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねてこらえて来たような叫び声を一度にあげるとともに胎児を分娩した。
彼は狼狽した。彼はやむを得ず暗中に模索した。彼の右手はたちまち一種異様の触覚をもって、今まで経験したことのないある物に触れた。そのある物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪郭からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。彼は恐ろしくなって急に手をひっこめた。
夏目漱石『道草』
漱石の『道草』でこんなシーンがあって、ここからわかるのは、「夫」にとって「子」は、「ぷりぷり」だったということです。
血縁関係でも、またひととの関係においても、ことばが介在することによって、ことばの配置や置き換えによって、関係性がもういちど組み替えられるのがことばを使った表現の基本的視座にあるのではないかとおもっています。
ここで「夫」にとって「ぷりぷり」と言語変換された「子」はどこかでこうしたぷりぷり変換を引きずりながら、またことばの網の目のなかで関係性を組み直していくわけです。
そうした、ことばの配置による関係性の組み換えがいちばん効果的にあらわれるのが定型なのではないかとおもっています。理由は、定型の〈狭さ〉にあります。
義母養母実母の順ににじりよる 樋口由紀子
この樋口さんの句において、さまざまな〈母〉との関係性は端的に〈配置〉においてあらわれています。
定型の〈狭さ〉のなかで、「義母養母実母」という配列をつくっているのがこの句です。
ここでは、語り手とのそれぞれの〈母〉との距離感が、順列によって示されながらも、それが並列として母母母と並んでしまうことによって〈母〉が語り手を遠く離れてメカニカルに機械的に配列されている〈遠さ〉があらわれているのではないかとおもいます。
つまり、リアルで実際的な関係よりも定型のなかにおける言語的配置が優先されている。
そしてその言語的配置が関係として組み直されている様子があらわれているのではないかとおもいます。
言語表現においては、または定型においては、たとえ実父であっても、実子であっても、どのような関係であっても、そこに言語変換と言語配置による関係の変圧がはいる。
しかも、定型は〈狭い〉ので配置が問題になる。キャンバスみたいに。キャンバスも、定型のように狭く、配置がそのまま意味表現になります。
たとえば、フーコーが表象の視座を語るときに用いた例にベラスケス『ラス・メニーナス』がありますが、この絵のなかに鏡が置かれることによって誰が誰をみてどのような配置にあるかが一種混乱する絵になっています。
だれが、どこから、みているのか。
そして、だれが、どこからみて、どのように配置をほどこしたのか。
このベラスケスの絵にある問いは、定型の配置の問題としてもつながっているようにもおもうのです。
いま、わたしは電車に乗りながらこれを書いているんですが、しかしわたしがいま行った配置操作もすぐさま相対化されるようなかたちで。
ラムネ瓶牛乳瓶と割っていく 樋口由紀子
(毎日新聞・毎日歌壇2014年10月27日・加藤治郎 選)
【ぷりぷりと母母母】
彼女は「もう生まれます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねてこらえて来たような叫び声を一度にあげるとともに胎児を分娩した。
彼は狼狽した。彼はやむを得ず暗中に模索した。彼の右手はたちまち一種異様の触覚をもって、今まで経験したことのないある物に触れた。そのある物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪郭からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。彼は恐ろしくなって急に手をひっこめた。
夏目漱石『道草』
漱石の『道草』でこんなシーンがあって、ここからわかるのは、「夫」にとって「子」は、「ぷりぷり」だったということです。
血縁関係でも、またひととの関係においても、ことばが介在することによって、ことばの配置や置き換えによって、関係性がもういちど組み替えられるのがことばを使った表現の基本的視座にあるのではないかとおもっています。
ここで「夫」にとって「ぷりぷり」と言語変換された「子」はどこかでこうしたぷりぷり変換を引きずりながら、またことばの網の目のなかで関係性を組み直していくわけです。
そうした、ことばの配置による関係性の組み換えがいちばん効果的にあらわれるのが定型なのではないかとおもっています。理由は、定型の〈狭さ〉にあります。
義母養母実母の順ににじりよる 樋口由紀子
この樋口さんの句において、さまざまな〈母〉との関係性は端的に〈配置〉においてあらわれています。
定型の〈狭さ〉のなかで、「義母養母実母」という配列をつくっているのがこの句です。
ここでは、語り手とのそれぞれの〈母〉との距離感が、順列によって示されながらも、それが並列として母母母と並んでしまうことによって〈母〉が語り手を遠く離れてメカニカルに機械的に配列されている〈遠さ〉があらわれているのではないかとおもいます。
つまり、リアルで実際的な関係よりも定型のなかにおける言語的配置が優先されている。
そしてその言語的配置が関係として組み直されている様子があらわれているのではないかとおもいます。
言語表現においては、または定型においては、たとえ実父であっても、実子であっても、どのような関係であっても、そこに言語変換と言語配置による関係の変圧がはいる。
しかも、定型は〈狭い〉ので配置が問題になる。キャンバスみたいに。キャンバスも、定型のように狭く、配置がそのまま意味表現になります。
たとえば、フーコーが表象の視座を語るときに用いた例にベラスケス『ラス・メニーナス』がありますが、この絵のなかに鏡が置かれることによって誰が誰をみてどのような配置にあるかが一種混乱する絵になっています。
だれが、どこから、みているのか。
そして、だれが、どこからみて、どのように配置をほどこしたのか。
このベラスケスの絵にある問いは、定型の配置の問題としてもつながっているようにもおもうのです。
いま、わたしは電車に乗りながらこれを書いているんですが、しかしわたしがいま行った配置操作もすぐさま相対化されるようなかたちで。
ラムネ瓶牛乳瓶と割っていく 樋口由紀子
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