【感想】たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
- 2014/10/29
- 00:01
たったひとりを選ぶ 運動場は雨 倉本朝世
【襲いかかる定型】
今週の『週刊俳句』に、矢島玖美子さんの「口あけて寝てる この人しかいない」という句について書いた文章を載せていただいたのですが、その対のような句が上の倉本さんの句なのではないかとおもうんです。
この倉本さんの句についていろんな見方ができると思うんですが、今回注目してみたいのが、「運動場は雨」のなかにある助詞「は」です。「運動場が雨」ではなかった。
ここで、助詞「が」と助詞「は」のちがいについてすこしまとめてみます。
格助詞「が」には、排他を表す用法があります。
たとえば、「あなたがすきだ」というとき、あなた以外は排除されている。あなたしかすきなひとがいないという状態なわけです。
これが、「あなたはすきだ」という愛の告白だとまずいわけです。
え、ほかにだれかまだすきなひといるの? ということになります。
「あなたはすきだ」けど、「かれもすきだよ」になってしまうわけです。
つまり、係助詞「は」には対比を表す用法があります。
助詞「が」には、これしかないんだという一択のパワーが、一方、助詞「は」には、選択的・並列的なやわらかさと弱さがあるということです。
倉本さんの句に、かえります。
倉本さんの句では、「運動場は雨」となっていました。
だから、句の語り手はこのとき、「運動場」以外の場所も対比的にかんがえているということです。
「運動場は雨」かもしれないけれど、「運動場以外の場所は雨じゃない」かもしれない。
これは、句のベクトルとしては意外なことです。
なぜなら、語り手は「たったひとりを選ぶ」といったあとで、まるで自身の心境をひるがえすように比較する助詞「は」で文のシンタクス(構成)をつくりあげているからです。
わたしは、ここにこの句のふしぎな奥行きがあるのではないかとおもいます。
矢島さんの句も「この人しかいない」と語り手が発話しながら定型でわけてみると不思議な節目をみせていましたが、倉本さんの句においても、
「たったひとりを/選ぶ運動/場は雨」
と「たったひとりを選ぶ」から「選ぶ運動」へのふしぎな意味のカテゴライズのゆれが出てきます。
語り手は、「選ぶ」と選び終わったあとにも、定型のなかで「選ぶ運動」を永久につづけていくかのようなあんばいです。定型という永遠に繰り返し反復される「運動場」のなかで。
「たったひとりを選ぶ」と語り手が発話するやないな、文をまとめあげるシンタクスと定型の力が発動すること。
そしてその力の発動によって、〈選ぶ〉過程においてゆれている語り手を、定型としての「運動場」のなかで、ずっと「選ぶ運動」を繰り返させるということ。
この句の複雑さは、そうした語り手と定型が葛藤しつづける再帰性にあるのではないかとおもうのです。
つまり、〈選ぶ〉と素直にいえた語り手に、定型が、嫉妬し、反撃すること。
ここには、ひとつ、大事な主題があるとおもいます。
語り手の心情と、定型は必ずしも一致しないということです。
語り手と定型は、ときに、対立し、葛藤さえするのです。
語り手に、定型は襲いかかることもある。語り手の意に反して、語り手を試すようにして、率直にいいあらわせた語り手に嫉妬するかのように。
でも、あらためてかんがえてみれば、「たったひとりを選ぶ」という行為は、そのような行為なのではないかともおもいます。
「この人しかいない」と思いつつ、「たったひとりを選ぶ」とき、さまざまな定型=規範と対立し、葛藤します。
じぶんがそれまで何気なく使ってきた言語のプログラム、言語態でさえ、細かい助辞のあらわれとして拮抗してくるかもしれません。助辞というのは、ある意味、〈社会性〉といってもいいかもしれません。助辞というのは、〈わたし〉と〈あなた〉の場所性を明らかにしコミュニケーションを円滑にするためのことばなので。
定型や助辞が、絶対的に〈いま・ここ〉で選択しようとしている〈わたし〉を、試してくるのです。
それでも。
それでも、〈選ぶ〉ということ。定型のなかで〈たったひとつを選ぶ〉ということ。
それがこの句の〈選ぶ〉行為をめぐるダイナミズムなのではないかとおもうのです。
定型に拮抗してまで、「たったひとりを選ぶ」ということ。
わたしのこれからには、それ以外はなかったということ。
いや、
わたしのこれからには、それ以外がなかったということ。
これからのことが黙ってたっている 徳永政二
【襲いかかる定型】
今週の『週刊俳句』に、矢島玖美子さんの「口あけて寝てる この人しかいない」という句について書いた文章を載せていただいたのですが、その対のような句が上の倉本さんの句なのではないかとおもうんです。
この倉本さんの句についていろんな見方ができると思うんですが、今回注目してみたいのが、「運動場は雨」のなかにある助詞「は」です。「運動場が雨」ではなかった。
ここで、助詞「が」と助詞「は」のちがいについてすこしまとめてみます。
格助詞「が」には、排他を表す用法があります。
たとえば、「あなたがすきだ」というとき、あなた以外は排除されている。あなたしかすきなひとがいないという状態なわけです。
これが、「あなたはすきだ」という愛の告白だとまずいわけです。
え、ほかにだれかまだすきなひといるの? ということになります。
「あなたはすきだ」けど、「かれもすきだよ」になってしまうわけです。
つまり、係助詞「は」には対比を表す用法があります。
助詞「が」には、これしかないんだという一択のパワーが、一方、助詞「は」には、選択的・並列的なやわらかさと弱さがあるということです。
倉本さんの句に、かえります。
倉本さんの句では、「運動場は雨」となっていました。
だから、句の語り手はこのとき、「運動場」以外の場所も対比的にかんがえているということです。
「運動場は雨」かもしれないけれど、「運動場以外の場所は雨じゃない」かもしれない。
これは、句のベクトルとしては意外なことです。
なぜなら、語り手は「たったひとりを選ぶ」といったあとで、まるで自身の心境をひるがえすように比較する助詞「は」で文のシンタクス(構成)をつくりあげているからです。
わたしは、ここにこの句のふしぎな奥行きがあるのではないかとおもいます。
矢島さんの句も「この人しかいない」と語り手が発話しながら定型でわけてみると不思議な節目をみせていましたが、倉本さんの句においても、
「たったひとりを/選ぶ運動/場は雨」
と「たったひとりを選ぶ」から「選ぶ運動」へのふしぎな意味のカテゴライズのゆれが出てきます。
語り手は、「選ぶ」と選び終わったあとにも、定型のなかで「選ぶ運動」を永久につづけていくかのようなあんばいです。定型という永遠に繰り返し反復される「運動場」のなかで。
「たったひとりを選ぶ」と語り手が発話するやないな、文をまとめあげるシンタクスと定型の力が発動すること。
そしてその力の発動によって、〈選ぶ〉過程においてゆれている語り手を、定型としての「運動場」のなかで、ずっと「選ぶ運動」を繰り返させるということ。
この句の複雑さは、そうした語り手と定型が葛藤しつづける再帰性にあるのではないかとおもうのです。
つまり、〈選ぶ〉と素直にいえた語り手に、定型が、嫉妬し、反撃すること。
ここには、ひとつ、大事な主題があるとおもいます。
語り手の心情と、定型は必ずしも一致しないということです。
語り手と定型は、ときに、対立し、葛藤さえするのです。
語り手に、定型は襲いかかることもある。語り手の意に反して、語り手を試すようにして、率直にいいあらわせた語り手に嫉妬するかのように。
でも、あらためてかんがえてみれば、「たったひとりを選ぶ」という行為は、そのような行為なのではないかともおもいます。
「この人しかいない」と思いつつ、「たったひとりを選ぶ」とき、さまざまな定型=規範と対立し、葛藤します。
じぶんがそれまで何気なく使ってきた言語のプログラム、言語態でさえ、細かい助辞のあらわれとして拮抗してくるかもしれません。助辞というのは、ある意味、〈社会性〉といってもいいかもしれません。助辞というのは、〈わたし〉と〈あなた〉の場所性を明らかにしコミュニケーションを円滑にするためのことばなので。
定型や助辞が、絶対的に〈いま・ここ〉で選択しようとしている〈わたし〉を、試してくるのです。
それでも。
それでも、〈選ぶ〉ということ。定型のなかで〈たったひとつを選ぶ〉ということ。
それがこの句の〈選ぶ〉行為をめぐるダイナミズムなのではないかとおもうのです。
定型に拮抗してまで、「たったひとりを選ぶ」ということ。
わたしのこれからには、それ以外はなかったということ。
いや、
わたしのこれからには、それ以外がなかったということ。
これからのことが黙ってたっている 徳永政二
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