【感想】窓に他人の屋根また迫る朝の紅茶 林田紀音夫
- 2014/10/30
- 00:47
窓に他人の屋根また迫る朝の紅茶 林田紀音夫
【繰り返される〈はじめての屈葬〉】
この句は、考えてみれば、すごくふつうのなんでもない日常を詠んでいるんだとおもうんです。
朝起きて食卓につく。
窓から外をみれば、いつものように、隣の家の屋根がある。
家族が朝の紅茶をいれてくれている。
この〈いつものように〉だけをとっぱらった〈一回性〉の風景を、日常的に・習慣的に、析出してみるとどうなるか。
これがこの句のおもしろさなのではないかとおもいます。
〈いつものように〉だけを脱色すること。
この〈わたし〉から、〈毎日〉を抜き去ること。
そうすると、窓から〈いつものように〉みえていた隣の家の屋根は、「他人の屋根」と置換されることになります。
語り手は、驚いているわけです。
〈いつものように〉がなくなったあとで、窓からみえたものが「他人の屋根」だったので、びっくりしている。
この「隣人の屋根」でも「家の屋根」でもなく、「他人の屋根」と語り手が発話しているところに、語り手がいかに自/他の二項対立的思考のもとに〈侵食〉されそうになっているかがわかるのではないかとおもいます。
もっといえば、〈いつものように〉がなくなるということは、このいましゃべっているわたし以外は、いっさいが他人になるということでもあるとおもいます。
そして、だからこその、「また迫る朝の紅茶」という紅茶の脅威です。
〈いつものように〉が抜き去られた世界では、いっかいいっかいが〈習慣化〉されず一回性をおびるので、〈また〉と加算方式になっていきます。
そして、語り手は、たぶん、紅茶のことがよくわかっていないとおもいます。
紅茶も〈他人〉と考えているふしもあります。
だから「迫る」といっている。
〈いつものように〉を抜いたあとで毎日繰り返される風景を記述しなおすとき、そこには無時間的で、いっさいが〈他人化〉された地獄があらわれます(「地獄とは他人のことだ」といったのはたしかサルトルでした)。
しかしかんがえてみれば、短詩というのは、この〈一回生〉を生きるということでもあるんじゃないかともおもうんです。
はじめての時間、はじめての風景、はじめてのまなざしにであう。
それは、〈初体験〉という意味での〈はじめて〉ではなくて、〈一回生〉という意味での繰り返された〈はじめて〉なのではないかと。
その一回生を生き抜くためにひとは〈いつものように性〉を縦横無尽に奮うことのできない定型にダイヴしていくのではないかと。
定型を選択した者には、〈いつか〉はたえず遅延され、くりかえされる日常としての〈はじめて〉が、なんどもなんども「また迫る」。
いつか星ぞら屈葬の他は許されず 林田紀音夫
【繰り返される〈はじめての屈葬〉】
この句は、考えてみれば、すごくふつうのなんでもない日常を詠んでいるんだとおもうんです。
朝起きて食卓につく。
窓から外をみれば、いつものように、隣の家の屋根がある。
家族が朝の紅茶をいれてくれている。
この〈いつものように〉だけをとっぱらった〈一回性〉の風景を、日常的に・習慣的に、析出してみるとどうなるか。
これがこの句のおもしろさなのではないかとおもいます。
〈いつものように〉だけを脱色すること。
この〈わたし〉から、〈毎日〉を抜き去ること。
そうすると、窓から〈いつものように〉みえていた隣の家の屋根は、「他人の屋根」と置換されることになります。
語り手は、驚いているわけです。
〈いつものように〉がなくなったあとで、窓からみえたものが「他人の屋根」だったので、びっくりしている。
この「隣人の屋根」でも「家の屋根」でもなく、「他人の屋根」と語り手が発話しているところに、語り手がいかに自/他の二項対立的思考のもとに〈侵食〉されそうになっているかがわかるのではないかとおもいます。
もっといえば、〈いつものように〉がなくなるということは、このいましゃべっているわたし以外は、いっさいが他人になるということでもあるとおもいます。
そして、だからこその、「また迫る朝の紅茶」という紅茶の脅威です。
〈いつものように〉が抜き去られた世界では、いっかいいっかいが〈習慣化〉されず一回性をおびるので、〈また〉と加算方式になっていきます。
そして、語り手は、たぶん、紅茶のことがよくわかっていないとおもいます。
紅茶も〈他人〉と考えているふしもあります。
だから「迫る」といっている。
〈いつものように〉を抜いたあとで毎日繰り返される風景を記述しなおすとき、そこには無時間的で、いっさいが〈他人化〉された地獄があらわれます(「地獄とは他人のことだ」といったのはたしかサルトルでした)。
しかしかんがえてみれば、短詩というのは、この〈一回生〉を生きるということでもあるんじゃないかともおもうんです。
はじめての時間、はじめての風景、はじめてのまなざしにであう。
それは、〈初体験〉という意味での〈はじめて〉ではなくて、〈一回生〉という意味での繰り返された〈はじめて〉なのではないかと。
その一回生を生き抜くためにひとは〈いつものように性〉を縦横無尽に奮うことのできない定型にダイヴしていくのではないかと。
定型を選択した者には、〈いつか〉はたえず遅延され、くりかえされる日常としての〈はじめて〉が、なんどもなんども「また迫る」。
いつか星ぞら屈葬の他は許されず 林田紀音夫
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