【感想】何回も手にとり猫か確かめる ながたまみ
- 2014/10/31
- 00:01
何回も手にとり猫か確かめる ながたまみ
【シュレーディンガーと明滅する川柳猫】
さいきん考えているのが、ジャンルにはそのジャンル特有の〈知〉のありようがあるかなあとおもうんです。
〈知〉のありかたからさぐるジャンル論もあるのではないかと。
たとえばですね、俳句に上田信治さんのこんな句があります。
椎茸や人に心のひとつゞつ 上田信治
この俳句を〈知のありよう〉としての側面からみてみると、「人に心のひとつ ゞつ 」あるかどうかは、語り手も句も読み手も、知っているし、知らないことでもあります。
その〈どちらでもいい〉のだけれど、その〈どちらでもいい〉をそのままに〈ことば〉として〈留める〉。
それが俳句の〈知〉のありようなのかな、とおもうんです。
知るか・知らないか、が大事なのではなくて、〈それ〉という言説化できないものを定型にする、もしくは定型となって(しまって)いるのが俳句なのではないか。
〈それ〉は、知・不知の彼岸です。〈非知〉といったらいいでしょうか。とにかく、〈not 知〉としてしか成立しないありようです。〈どちらでもいい知〉です。
一方、おなじ575定型ではあるけれど、川柳の〈知〉のありようは、基本的に〈あいまいさ〉=〈曖昧知〉にあるのではないかとおもっています。〈どちらでもあるし・どちらでもない知〉です。
何回も手にとり猫か確かめる ながたまみ
猫かどうかわからないわけです。
この句で大事なのは、「確かめる」という決定づけられなかった〈曖昧性〉です。
猫かもしれないが猫じゃないかもしれない。
何回も手にとっているのにわからない。
知る、でもなく、知らない、でもなく、どちらでもいい、わけでもなく、 何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる……と続いていくであろう状態。
このながたさんの句は、ねじまき句会の瀬戸吟行句なんですが、〈吟行〉という〈足〉のリアリティの素地からできあがってくる句が、あいまいな語り手のあいまいな猫として立ちあがってくるのが、とても興味深いとおもうんです。
小説でも、映画でも、マンガでも、演劇でも、短詩でも、現代詩でと、アニメでも、それぞれのジャンルをめぐる〈知〉のありようがあり、その〈知のありよう〉がフィードバックされるかたちで、ジャンルを再生産、もしくは再組織化しているのではないかとおもうのです。
わたしたちがジャンルのなかでうごめくときに、そのジャンルのなかに入ったがために、どのような〈知〉の主体を演じることになるのか。
そんなことを、ときどき、かんがえています(なにひとつしらないのに・〈なにひとつしらない〉をしったようなかおをして)。
逆光のネコの仔銀河へワープする途中 金原まさ子
ネコと非ネコ明滅しながら反復横跳び 山田露結
【シュレーディンガーと明滅する川柳猫】
さいきん考えているのが、ジャンルにはそのジャンル特有の〈知〉のありようがあるかなあとおもうんです。
〈知〉のありかたからさぐるジャンル論もあるのではないかと。
たとえばですね、俳句に上田信治さんのこんな句があります。
椎茸や人に心のひとつゞつ 上田信治
この俳句を〈知のありよう〉としての側面からみてみると、「人に心のひとつ ゞつ 」あるかどうかは、語り手も句も読み手も、知っているし、知らないことでもあります。
その〈どちらでもいい〉のだけれど、その〈どちらでもいい〉をそのままに〈ことば〉として〈留める〉。
それが俳句の〈知〉のありようなのかな、とおもうんです。
知るか・知らないか、が大事なのではなくて、〈それ〉という言説化できないものを定型にする、もしくは定型となって(しまって)いるのが俳句なのではないか。
〈それ〉は、知・不知の彼岸です。〈非知〉といったらいいでしょうか。とにかく、〈not 知〉としてしか成立しないありようです。〈どちらでもいい知〉です。
一方、おなじ575定型ではあるけれど、川柳の〈知〉のありようは、基本的に〈あいまいさ〉=〈曖昧知〉にあるのではないかとおもっています。〈どちらでもあるし・どちらでもない知〉です。
何回も手にとり猫か確かめる ながたまみ
猫かどうかわからないわけです。
この句で大事なのは、「確かめる」という決定づけられなかった〈曖昧性〉です。
猫かもしれないが猫じゃないかもしれない。
何回も手にとっているのにわからない。
知る、でもなく、知らない、でもなく、どちらでもいい、わけでもなく、 何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる何回も手にとり猫か確かめる……と続いていくであろう状態。
このながたさんの句は、ねじまき句会の瀬戸吟行句なんですが、〈吟行〉という〈足〉のリアリティの素地からできあがってくる句が、あいまいな語り手のあいまいな猫として立ちあがってくるのが、とても興味深いとおもうんです。
小説でも、映画でも、マンガでも、演劇でも、短詩でも、現代詩でと、アニメでも、それぞれのジャンルをめぐる〈知〉のありようがあり、その〈知のありよう〉がフィードバックされるかたちで、ジャンルを再生産、もしくは再組織化しているのではないかとおもうのです。
わたしたちがジャンルのなかでうごめくときに、そのジャンルのなかに入ったがために、どのような〈知〉の主体を演じることになるのか。
そんなことを、ときどき、かんがえています(なにひとつしらないのに・〈なにひとつしらない〉をしったようなかおをして)。
逆光のネコの仔銀河へワープする途中 金原まさ子
ネコと非ネコ明滅しながら反復横跳び 山田露結
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想