【感想】定型をかんがえる-おでんとしての縦軸から、歴史的大根・こんにゃくの横軸へ-
- 2014/05/08
- 20:30
57577などの定型というのはよく5+7+5+7+7といったような、文の組み合わせの問題(統辞論=シンタックスの問題)としてとらえられがちであるようにもおもうけれども(上の句/下の句といったラインをかたちづくる言語感覚によくあらわれている)、そういった縦軸にくわえて横軸の問題、つまり、5はほかの5でありえたかもしれないし、これまでの歴史のなかでおおくの5が存在したということ、しかし語り手であるこの〈わたし〉はそれらではなくこの5音を選んだのだということとしての〈選別・選択〉の問題もあるのではないかとおもう(範列論=パラディグムの問題)。
ほからなぬこの5音をえらんだということがそれまでの歴史のなかのおびただしい5音やこれからの未来のあふれかえる5音との差異化において〈歴史〉となる。
そういったたとえば初句のおなじ位置の5音において、あなたはそう選んだけれどもわたしはこう選んだ、というところに短歌のひとつの歴史性があるのではないだろうか。
初句の5音を、第二句の7音を、結句の5音を、それまでの歴史上の初句や第二句との差異化において、どの位置から、いつ、だれとして、どう、選択したかということの歴史性。
短歌形式によって表現するということは、短歌というそれ自体一種の広義の文体の中で、個に密接する狭義の文体がどう実現できるかに賭けることである。あるいは、歴史にしごかれ、鍛えられた公の文体を一気にとり込んで私の文体として提示することである。
佐佐木幸綱「短歌の文体」『文体』1978/3
パラディグマティックな関係にある項の広がりがある。そこからはひとつの項しか選ばれていないのだけれど、そのひとつが選ばれることによって選ばれなかった他のすべての項の広がりが広いか狭いかということは、直接的に画面には現れてこないものの、決定的だと思います。たとえばじゃんけんで勝負が可能になるのは、常に勝負の場面では不在化される第三項が存在しているから勝負が成立するわけです。そういう意味でも不在化される項の広がりはきわめて重要になる。しかもソシュールの言葉を借りれば、パラディグマティックな関係は記憶の関係を喚起しますから、当然のことながら記憶の問題でもあります。
松浦寿夫『ユリイカ セザンヌにはどう視えているか』2012/4
ほからなぬこの5音をえらんだということがそれまでの歴史のなかのおびただしい5音やこれからの未来のあふれかえる5音との差異化において〈歴史〉となる。
そういったたとえば初句のおなじ位置の5音において、あなたはそう選んだけれどもわたしはこう選んだ、というところに短歌のひとつの歴史性があるのではないだろうか。
初句の5音を、第二句の7音を、結句の5音を、それまでの歴史上の初句や第二句との差異化において、どの位置から、いつ、だれとして、どう、選択したかということの歴史性。
短歌形式によって表現するということは、短歌というそれ自体一種の広義の文体の中で、個に密接する狭義の文体がどう実現できるかに賭けることである。あるいは、歴史にしごかれ、鍛えられた公の文体を一気にとり込んで私の文体として提示することである。
佐佐木幸綱「短歌の文体」『文体』1978/3
パラディグマティックな関係にある項の広がりがある。そこからはひとつの項しか選ばれていないのだけれど、そのひとつが選ばれることによって選ばれなかった他のすべての項の広がりが広いか狭いかということは、直接的に画面には現れてこないものの、決定的だと思います。たとえばじゃんけんで勝負が可能になるのは、常に勝負の場面では不在化される第三項が存在しているから勝負が成立するわけです。そういう意味でも不在化される項の広がりはきわめて重要になる。しかもソシュールの言葉を借りれば、パラディグマティックな関係は記憶の関係を喚起しますから、当然のことながら記憶の問題でもあります。
松浦寿夫『ユリイカ セザンヌにはどう視えているか』2012/4
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