【感想】夜櫻や人に見られずくぐる門 長谷川かな女
- 2014/11/02
- 00:01
夜櫻や人に見られずくぐる門 長谷川かな女
掟の門前に門番が立っていた。田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。
今はだめだ、と門番は言った。今はだめだとしても、後でならいいのか、とたずねた。
「たぶんな。とにかく今はだめだ」と門番は答えた。
カフカ「掟の門」
【門をくぐる日(見られてはいけない)】
「人に見られずくぐる」と言語化したのがとてもおもしろい句だとおもうんですが、でもここにはこのことばが出たことで、大事な問題が提出されているようにおもいます。
俳句という形式は、〈だれ〉が〈どこ〉で〈なに〉をみているのか、という〈みること〉をめぐる形式だということもできるとおもうんですが、しかしそれと背中合わせのように潜在的に秘められている問題があります。
それは、そうやっていま〈み〉ている〈わたし〉そのものをいったい〈だれ〉が〈み〉ているのかという問題です。
〈わたし〉から特権的に投げかけられた視線が言説化されて〈俳句〉になるときに、その〈俳句〉を生成している〈わたし〉をみている、その特権的視線を相対化するような〈だれか〉がいるのではないか。
そういった俳句をめぐる視線の問題として、この句は、〈こわい〉とおもうのです。
「人に見られずくぐる門」と言説化しつつも、この語り手はたぶん〈見られ〉ていることを知っています。
〈見られ〉ていることを知っているからこそ「見られずくぐる」と言説化できるのです。
では、〈だれ〉がみていたのか。
さんにんいる、とおもいます。
ひとりめは、「夜櫻」です。
「夜櫻」という語り手を取り巻く風景が視線の主体になって「くぐる」語り手をみている。だからこその「夜櫻や」です。「夜櫻や」と発話してしまった語り手をその上五の「夜櫻や」が「見」ている、といっていいかもしれません。
ふたりめは、〈わたし〉、つまり語り手自身です。
わたしが、「見られずくぐる」と言語化するということは、〈わたし〉が〈そのわたし〉を「見」ているということです。
さんにんめは、〈あなた〉、つまり読み手です。
これからこの俳句を眼にする過去と未来のすべての読み手が「見られずくぐる」語り手を〈俳句〉をとおして〈見〉ています。
「見られずくぐる」と言説化してしまうことによって、このみっつの視線を引き受けざるをえなくなった語り手。
それがこの句の〈こわさ〉のようにわたしはおもうんです。
そしてここに視線の分水峰、すなわち境界としての〈門〉があるんじゃないかと。
でも〈門〉というのは、漱石『門』のようにあくまで分水峰であり、言語化するのが不可能なものです。
それは、〈関わり〉としてそのつど産出されるしかない。
そもそも、〈門〉というのは、カフカの「掟の門」のように、誰のためにもない、〈あなた〉=〈わたし〉のためにしかないのです。
「誰もが掟を求めているというのに──」
と、男は言った。
「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」
カフカ「掟の門」
わたしたちは〈ことば〉を介してしか〈門〉をくぐりぬけようとすることはできないけれど、しかし〈ことば〉を介するがために〈誰にも見られず〉に〈門〉をくぐることはできない。
だから、〈門〉はいつまでも〈わたし〉の眼前にただただ現前するしかない。だれかに目撃=共有される必然性をともなって。
すなわち、ことばを指示するメタことば、として。
この国の言葉でいえばそれは門 なかはられいこ
掟の門前に門番が立っていた。田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。
今はだめだ、と門番は言った。今はだめだとしても、後でならいいのか、とたずねた。
「たぶんな。とにかく今はだめだ」と門番は答えた。
カフカ「掟の門」
【門をくぐる日(見られてはいけない)】
「人に見られずくぐる」と言語化したのがとてもおもしろい句だとおもうんですが、でもここにはこのことばが出たことで、大事な問題が提出されているようにおもいます。
俳句という形式は、〈だれ〉が〈どこ〉で〈なに〉をみているのか、という〈みること〉をめぐる形式だということもできるとおもうんですが、しかしそれと背中合わせのように潜在的に秘められている問題があります。
それは、そうやっていま〈み〉ている〈わたし〉そのものをいったい〈だれ〉が〈み〉ているのかという問題です。
〈わたし〉から特権的に投げかけられた視線が言説化されて〈俳句〉になるときに、その〈俳句〉を生成している〈わたし〉をみている、その特権的視線を相対化するような〈だれか〉がいるのではないか。
そういった俳句をめぐる視線の問題として、この句は、〈こわい〉とおもうのです。
「人に見られずくぐる門」と言説化しつつも、この語り手はたぶん〈見られ〉ていることを知っています。
〈見られ〉ていることを知っているからこそ「見られずくぐる」と言説化できるのです。
では、〈だれ〉がみていたのか。
さんにんいる、とおもいます。
ひとりめは、「夜櫻」です。
「夜櫻」という語り手を取り巻く風景が視線の主体になって「くぐる」語り手をみている。だからこその「夜櫻や」です。「夜櫻や」と発話してしまった語り手をその上五の「夜櫻や」が「見」ている、といっていいかもしれません。
ふたりめは、〈わたし〉、つまり語り手自身です。
わたしが、「見られずくぐる」と言語化するということは、〈わたし〉が〈そのわたし〉を「見」ているということです。
さんにんめは、〈あなた〉、つまり読み手です。
これからこの俳句を眼にする過去と未来のすべての読み手が「見られずくぐる」語り手を〈俳句〉をとおして〈見〉ています。
「見られずくぐる」と言説化してしまうことによって、このみっつの視線を引き受けざるをえなくなった語り手。
それがこの句の〈こわさ〉のようにわたしはおもうんです。
そしてここに視線の分水峰、すなわち境界としての〈門〉があるんじゃないかと。
でも〈門〉というのは、漱石『門』のようにあくまで分水峰であり、言語化するのが不可能なものです。
それは、〈関わり〉としてそのつど産出されるしかない。
そもそも、〈門〉というのは、カフカの「掟の門」のように、誰のためにもない、〈あなた〉=〈わたし〉のためにしかないのです。
「誰もが掟を求めているというのに──」
と、男は言った。
「この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?」
いのちの火が消えかけていた。うすれていく意識を呼びもどすかのように門番がどなった。
「ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門は、おまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」
カフカ「掟の門」
わたしたちは〈ことば〉を介してしか〈門〉をくぐりぬけようとすることはできないけれど、しかし〈ことば〉を介するがために〈誰にも見られず〉に〈門〉をくぐることはできない。
だから、〈門〉はいつまでも〈わたし〉の眼前にただただ現前するしかない。だれかに目撃=共有される必然性をともなって。
すなわち、ことばを指示するメタことば、として。
この国の言葉でいえばそれは門 なかはられいこ
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