【川柳・連作】「SOU」『おかじょうき』2014年10月号
- 2014/11/06
- 12:00
「SOUTAI」を宣戦と取る異星人
早退で次元の違うコンビニに
早さとか遅さとかある自慰行為
早合点している子規の内宇宙
早漏の河童に会った銀座線
柳本々々『おかじょうき』2014年10月号
*
なかはられいこさんから「おかじょうき10月号」にて上の二句のていねいな句評をいただきました。ありがとうございました!
なかはらさんの「これはもしかして終刊に参加された『So』へのオマージュではないか」ということばを読んで、〈背景〉も意味の文脈になることがある、ということについてかんがえました。
句や歌が独自の〈生〉を持ち、生きていくなかで、それとは別にその句や歌をめぐる〈背景〉もまた〈生〉をもち、意味の文脈を変えつつ、生きていくことがある。
たとえば、先日引用させていただいたなかはられいこさんの「この国の言葉でいえばそれは門」という句。
こうした〈ことばがことばを指し示す句〉=メタことば句があらわれることによって、なかはらさんのこれまでの句集や句を〈ことばと/のことば〉の視点からとらえかえしたらどうなるのだろうという読み手の文脈のゆりかえしがおこる場合もある。
これは、句が意味の背景をかたちづくり、その背景がまたあらたな生を句につくっていくというイメージです。
語り手だけが、読み手だけが、意味の背景の文脈の権能をもつのではなくて、句や歌も、たとえそれが一句/一首でも〈背景〉に働きかけ、これまでの句や歌のべつのとらえかえしを要請してくることがある。
そんなふうに、おもったりすることがあるのです。
たしかベンヤミンが、作品は〈翻訳〉されるたびに、〈純粋言語〉の部分が残っていく、というようなことをいっていたとおもうんですが、そうしたあたらしくわきあがる〈背景〉もまた句や歌の純粋言語をひっぱりだし、過去から未来へと生の飛躍をさせていくのではないか。
それはもちろん、〈ひと〉といった主体だけでなく、〈災害〉や〈事件〉〈流行〉などの〈歴史〉が生起したときもまたそうだとおもいます。
あらゆる〈背景〉がそのつどことばの核をとりだし、〈翻訳〉し、意味をさずけ、また次にやってくる〈翻訳〉が、さずけた意味を脱意味化させていく。
それが、句や歌の生なのではないか。
答えはすぐには出ないけれど、その〈すぐには出ないけれど〉によって、語り手・読み手・背景・場・できごとが意味の文脈として機能し、句や歌の〈純粋言語〉をひきずりだしつづけてゆく。
それが、句や歌をめぐるレイヤーとしての重ねられる意味なのではないかとおもうのです。
答えない、ということに、答え(つづけ)る生があるということ。
バタンバタンしている扉、答えなさい なかはられいこ
歴史を超越した諸言語の親縁性は、あげて、完全な言語としてのおのおのの言語において、ひとつの、しかも同一のものが、思考されている点にある。そうはいってもこの同一のものは、個別的な言語のいずれかによって到達されるようなものではない。それは、諸言語の互いに補完しあう志向の総体によってのみ到達可能なもの、すなわち純粋言語である。(……)翻訳において原作は、いわば言語のより高次でより純粋な気圏のなかへ伸びていく。
ベンヤミン「翻訳者の課題」
ある名前が意味をもち、文が意味をもつのは、それが属している記号操作体系においてである。この体系は自律的である。─言語はそれ自身で語るのでなければならない。 ウィトゲンシュタイン『哲学的文法』
弾性運動を、私たちは語の意味の《自己転義》性あるいは《自己比喩》性と呼ぼう。「動物」はいつも「動物」の微妙な転義、かすかな比喩の運動としてのみ実現される…。
佐藤信夫『意味の弾性』
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:詩・ことば
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳連作