【短歌】「拙者は」と…(「第80回 短歌ください(お題:忍者)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2014年12月号)
- 2014/11/06
- 20:37
「拙者は」と主語が変わった渡辺がくさりがまを手にコンビニにいる 柳本々々
(「第80回 短歌ください(お題:忍者)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2014年12月号)
【拙者や俺や】
人間の心が一線を越える時ってこんな感じかもしれません。実際に「くさりがま」を手にする前に「主語」が「拙者」に変わっていたのに、周囲の人々は変だなと思いながらも流していた。でも、その時点では「渡辺」はもう向こう側の人になっていたんだ。
選者の穂村弘さんから上記のコメントをいただきました。ありがとうございました!
定型において主語というのはひとつの境界を指し示すのにとても大事な鍵になるのかなと思っているんですが、たとえばよくかんがえている主語に「俺」というものがあるんです。
以前感想を書かせていただいた句、
県道に俺のふとんが捨ててある 西原天気
この句の境界の〈踏み越え〉のひとつが主語の「俺」にあるのではないかともおもっているんです。
「わたし」でも「僕」でも「彼」でも「あたし」でもない。
「俺」といったときに、その主語でもって、語り手は〈まえもって〉どこかの〈道〉を歩き始め、なにかを〈捨てて〉いる。
主語を選ぶときに、ひとはそのつど、〈踏み越え〉る。
定型というただでさえ発話者が〈だれか〉が明確ななかで、あえて〈主語〉を明示するというのは、そうした境界的踏み越えとしての役割があるのではないかとおもったりしています。
架空の俺の架空の三十路(みそじ)月の夜の架空の弾薬庫の静寂 佐佐木幸綱
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