【感想】壁ドンする短歌-ドンしないかたちで壁を抜ける日―
- 2014/11/09
- 06:21
燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
父と母
壁のなかより杖つきて出(い)づ 石川啄木
この壁のむかふの室にゐるひとの影うすじろくわれにかかはる 前川佐美雄
システムの終りは暗い水の壁しずかに割れて顔を出す父 加藤治郎
壁の中へ這入(はい)つてしまふ女のため男のするのは卓子(テーブル)拭きか 岡井隆
【壁ドンされる石川啄木】
マンガで〈壁ドン〉っていうのがあって、男の子が女の子に詰め寄って壁をドン!としてなにかひとこというとそれがえらく決まるという壁を装置に使う表現術です。
壁ドンにおける壁のポイントは、それ以上向こう側へはいけないという絶対的境界線の役割、そしてもうひとつは男性のエネルギーを受け止めそれを反射する力の男性性の反響板としての役割のとりあえずふたつがあるんじゃないかと思います。
つまり壁ドンにおいては、壁が境界の役割と同時に媒介の役割もしている。
で、短歌の世界にも〈壁短歌〉はけっこうあるんです。
しかもその〈壁〉の使用法がとても独特です。
たとえば石川啄木の壁短歌では、父親と母親が壁のなかから出てくるんですが、啄木は日記に一時期心霊主義に傾倒していることを記述しているので、そうした心霊主義的枠組みから読み込むことも可能かもしれません(同時代的に夏目漱石もスピリチュアリズムの枠組みで小説を書いたりしています。一柳廣孝さんの研究に詳しいですが、明治末はスピリチュアリズムもひとつの科学としてありました)。
ただ心霊主義的枠組みで読まなくても、これはひとつの啄木における壁ドンの形態なんだなということがわかります。
壁は境界であり媒介の役割をしている。
壁から父と母がでてくる。有無をいわせないわけです。
壁、だから。
父と母から〈壁ドン〉される石川啄木。
前川佐美雄の歌も壁のむこうがわがわたしに侵食してきます。
これは「水の壁」ではあるものの、加藤さんの短歌も「水の壁」から「父」が顔を出してきます。
ここでは啄木の短歌とおなじようにおそらく〈わたし〉は入ることも抜けることも出ることもかなわない壁なのにそこから容易に他者が侵食してくる〈こわさ〉があります。
境界と媒介のもと、逆に壁ドンされるわたし。
壁が壁として失調するとき、そこには、逆―壁ドンが起きています。
壁を脱臼するかたちで他者が〈わたし〉にドンしてくるのです。
岡井さんの壁短歌では「女」が壁にはいっていってしまうため、「男」は取り残されテーブルをふこうとしています。
いままでの壁短歌とはベクトルが逆ですが、壁が壁として失調しているのはおなじです。「女」には失調はしているものの、「男」にはきちんと「壁」が機能している。
壁ドンの構図からあえてみるならば、ジェンダー双方に壁が機能してこそ意味があった壁ドンが、男にしか機能しなくなったせいで、孤独な壁ドンになっています。男がドンしても、女は壁のむこうにいる。むしろ、ドンするべき壁は男(男性性)の障害(バリアー)にもなってきます。
どの短歌も壁ドンの流行がくる前につくられた短歌ではあるものの、〈壁〉を媒介に文化的につながっているとおもいます。
むしろ壁ドンが古くからの壁の系譜にあったのではないかという言い方をしていいのかもしれません。
記号的に溶解してゆく壁を視覚的にジェンダー・カテゴリーとしてもかっちり固めなおすのが壁ドンだった。
境界といえば、木下龍也さんの短歌には〈絶対的境界〉、もうここから先はいけないし後戻りすることもできない、という〈絶対ライン〉をうたった歌がいくつかあるんじゃないかと思っているんですが、次のような壁短歌もその〈絶対ライン〉としての壁をうたっているようにおもいます。
そこでは壁はドンするものではなく、遂行するべき〈課題〉としてあり、そしてその課題が未遂のままに、挫折するべき〈壁〉としてあります。
塗装するはずだった壁いくつかを残したままで塗装屋は死ぬ 木下龍也
ちなみに村上春樹も壁ドンじゃないかたちで〈壁〉を提出する作家です。ところが、それが〈ドン〉になる。
「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで」 村上春樹『ノルウェイの森』
父と母
壁のなかより杖つきて出(い)づ 石川啄木
この壁のむかふの室にゐるひとの影うすじろくわれにかかはる 前川佐美雄
システムの終りは暗い水の壁しずかに割れて顔を出す父 加藤治郎
壁の中へ這入(はい)つてしまふ女のため男のするのは卓子(テーブル)拭きか 岡井隆
【壁ドンされる石川啄木】
マンガで〈壁ドン〉っていうのがあって、男の子が女の子に詰め寄って壁をドン!としてなにかひとこというとそれがえらく決まるという壁を装置に使う表現術です。
壁ドンにおける壁のポイントは、それ以上向こう側へはいけないという絶対的境界線の役割、そしてもうひとつは男性のエネルギーを受け止めそれを反射する力の男性性の反響板としての役割のとりあえずふたつがあるんじゃないかと思います。
つまり壁ドンにおいては、壁が境界の役割と同時に媒介の役割もしている。
で、短歌の世界にも〈壁短歌〉はけっこうあるんです。
しかもその〈壁〉の使用法がとても独特です。
たとえば石川啄木の壁短歌では、父親と母親が壁のなかから出てくるんですが、啄木は日記に一時期心霊主義に傾倒していることを記述しているので、そうした心霊主義的枠組みから読み込むことも可能かもしれません(同時代的に夏目漱石もスピリチュアリズムの枠組みで小説を書いたりしています。一柳廣孝さんの研究に詳しいですが、明治末はスピリチュアリズムもひとつの科学としてありました)。
ただ心霊主義的枠組みで読まなくても、これはひとつの啄木における壁ドンの形態なんだなということがわかります。
壁は境界であり媒介の役割をしている。
壁から父と母がでてくる。有無をいわせないわけです。
壁、だから。
父と母から〈壁ドン〉される石川啄木。
前川佐美雄の歌も壁のむこうがわがわたしに侵食してきます。
これは「水の壁」ではあるものの、加藤さんの短歌も「水の壁」から「父」が顔を出してきます。
ここでは啄木の短歌とおなじようにおそらく〈わたし〉は入ることも抜けることも出ることもかなわない壁なのにそこから容易に他者が侵食してくる〈こわさ〉があります。
境界と媒介のもと、逆に壁ドンされるわたし。
壁が壁として失調するとき、そこには、逆―壁ドンが起きています。
壁を脱臼するかたちで他者が〈わたし〉にドンしてくるのです。
岡井さんの壁短歌では「女」が壁にはいっていってしまうため、「男」は取り残されテーブルをふこうとしています。
いままでの壁短歌とはベクトルが逆ですが、壁が壁として失調しているのはおなじです。「女」には失調はしているものの、「男」にはきちんと「壁」が機能している。
壁ドンの構図からあえてみるならば、ジェンダー双方に壁が機能してこそ意味があった壁ドンが、男にしか機能しなくなったせいで、孤独な壁ドンになっています。男がドンしても、女は壁のむこうにいる。むしろ、ドンするべき壁は男(男性性)の障害(バリアー)にもなってきます。
どの短歌も壁ドンの流行がくる前につくられた短歌ではあるものの、〈壁〉を媒介に文化的につながっているとおもいます。
むしろ壁ドンが古くからの壁の系譜にあったのではないかという言い方をしていいのかもしれません。
記号的に溶解してゆく壁を視覚的にジェンダー・カテゴリーとしてもかっちり固めなおすのが壁ドンだった。
境界といえば、木下龍也さんの短歌には〈絶対的境界〉、もうここから先はいけないし後戻りすることもできない、という〈絶対ライン〉をうたった歌がいくつかあるんじゃないかと思っているんですが、次のような壁短歌もその〈絶対ライン〉としての壁をうたっているようにおもいます。
そこでは壁はドンするものではなく、遂行するべき〈課題〉としてあり、そしてその課題が未遂のままに、挫折するべき〈壁〉としてあります。
塗装するはずだった壁いくつかを残したままで塗装屋は死ぬ 木下龍也
ちなみに村上春樹も壁ドンじゃないかたちで〈壁〉を提出する作家です。ところが、それが〈ドン〉になる。
「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで」 村上春樹『ノルウェイの森』
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