【感想】撫でられていると何度か泣きそうになって何度もいきそうなふり 石原ユキオ
- 2014/11/10
- 12:00
撫でられていると何度か泣きそうになって何度もいきそうなふり 石原ユキオ
愛撫が目ざすのは人格でも、ものでもない。愛撫は、消散してゆく存在のうちで、いわば意志を欠き、抵抗すらも欠いた、非人称的な夢のなかにいるかのように消え去ってしまう。
レヴィナス『全体性と無限』
【戦略としての不(能)感】
この石原さんの歌は定型で割ってみるとわかるとおもうんですが、すごく息苦しいんですよね。
意味上で分けるなら、
撫でられていると/何度か泣きそうになって/何度もいきそうなふり
になるとおもうんですが、定型でわけると、
撫でられて/いると何度か/泣きそうに/なって何度も/いきそうなふり
と、どれも中途で発話が断ち切られてしまう。
ことばをかえれば、もうすこしでイけそうなところをイけないままに、定型が分断していく。
定型にきちんきちんとおさめることが《絶頂》というのであれば、この石原さんの歌ではすべてがイクことの未遂として《不感》として終わっていく(ただこの《不感》は決して悪い意味での《不感》ともいえないかもしれません。イクことよりも幸せを感じて泣きそうになっているかもしれないので。つまり、〈積極的不感〉かもしれない)。
さきほどの区切った定型をみてもらえるとわかるんですが、定型によってセンテンス自体があえぐ感じがでてくる。
きもちよいあえぎ、ではなく、カタルシスの未達としてのなかなかいくことができないあえぎです(何度もいいますがこの苦しさとしての〈あえぎ〉も幸福からくるものかもしれません。どちらともいえない)。
ただ結句の「いきそうなふり」だけはイけたんですよ。
これは未遂しないで定型に沿って発話することができます。
こうした定型を使用することの《不感》が効果的にでている短歌なのではないかとおもいます。
なぜ泣きそうになっているかはよくもわるくもどちらともとれるけれども、ともかくイクことよりも上回るなにかが起きている。男性エロマンガによくみられるような《絶頂》を基点にしたセクシュアリティではないセクシュアリティがこの歌にはあらわれている。
たとえばそうした《絶頂》をヤマ場にしないセクシュアリティはボーイズラブにおいてよく描かれます(その意味で、「やおい」のことばの原義といわれているのが、〈やまなし・おちなし・いみなし〉といわれているのは大事なことだとおもいます。それはある意味、男性的射精感の否定ともとれます)。
この歌はだからどんなふうにおたがいのジェンダーやセックスが交錯してもいい。
そうした積極的〈不能〉としてのセクシュアリティがあらわれているようにもおもうのです。
愛撫はある意味では愛を《表出》しているけれども、愛を語ることの不能に苦しんでいる。
レヴィナス『全体性と無限』
きみがいた八年分の夜いつも未遂に終わったアナルセックス 石原ユキオ
愛撫が目ざすのは人格でも、ものでもない。愛撫は、消散してゆく存在のうちで、いわば意志を欠き、抵抗すらも欠いた、非人称的な夢のなかにいるかのように消え去ってしまう。
レヴィナス『全体性と無限』
【戦略としての不(能)感】
この石原さんの歌は定型で割ってみるとわかるとおもうんですが、すごく息苦しいんですよね。
意味上で分けるなら、
撫でられていると/何度か泣きそうになって/何度もいきそうなふり
になるとおもうんですが、定型でわけると、
撫でられて/いると何度か/泣きそうに/なって何度も/いきそうなふり
と、どれも中途で発話が断ち切られてしまう。
ことばをかえれば、もうすこしでイけそうなところをイけないままに、定型が分断していく。
定型にきちんきちんとおさめることが《絶頂》というのであれば、この石原さんの歌ではすべてがイクことの未遂として《不感》として終わっていく(ただこの《不感》は決して悪い意味での《不感》ともいえないかもしれません。イクことよりも幸せを感じて泣きそうになっているかもしれないので。つまり、〈積極的不感〉かもしれない)。
さきほどの区切った定型をみてもらえるとわかるんですが、定型によってセンテンス自体があえぐ感じがでてくる。
きもちよいあえぎ、ではなく、カタルシスの未達としてのなかなかいくことができないあえぎです(何度もいいますがこの苦しさとしての〈あえぎ〉も幸福からくるものかもしれません。どちらともいえない)。
ただ結句の「いきそうなふり」だけはイけたんですよ。
これは未遂しないで定型に沿って発話することができます。
こうした定型を使用することの《不感》が効果的にでている短歌なのではないかとおもいます。
なぜ泣きそうになっているかはよくもわるくもどちらともとれるけれども、ともかくイクことよりも上回るなにかが起きている。男性エロマンガによくみられるような《絶頂》を基点にしたセクシュアリティではないセクシュアリティがこの歌にはあらわれている。
たとえばそうした《絶頂》をヤマ場にしないセクシュアリティはボーイズラブにおいてよく描かれます(その意味で、「やおい」のことばの原義といわれているのが、〈やまなし・おちなし・いみなし〉といわれているのは大事なことだとおもいます。それはある意味、男性的射精感の否定ともとれます)。
この歌はだからどんなふうにおたがいのジェンダーやセックスが交錯してもいい。
そうした積極的〈不能〉としてのセクシュアリティがあらわれているようにもおもうのです。
愛撫はある意味では愛を《表出》しているけれども、愛を語ることの不能に苦しんでいる。
レヴィナス『全体性と無限』
きみがいた八年分の夜いつも未遂に終わったアナルセックス 石原ユキオ
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