【感想】彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
- 2014/11/12
- 05:30
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
【空と爆心地】
Chim↑pomというアーティストのひとたちが、広島の上空に飛行機雲で「ピカッ」と描く作品があっていろいろと論議されたのですが、そうした広島の〈空〉としての表象がある一方で、この金子さんの句は、「爆心地」を〈足〉からとらえていることが大きいのではないかとおもうんです(ちなみに金子さんは長崎に勤務していました)。
「マラソン」というものを考えてみると、ふだんは実用的に使用している市街を、その〈どこかにいくための道路〉というソフトウェアを変換して、〈走り・競技するための道路〉をインストールし、ハードウェアだけはそのまま使うというそういうのが「マラソン」だとおもうんです。
つまり、マラソンっていうのは走ることができるための整備された市街地の形成がなければならないし、それをルールに沿って見守るためのコミュニケーション理性をもった公衆が必要とされる。
そうしたどこか近代の帰結、近代的ハードウェア=ソフトウェアの双方をもったものが「マラソン」なのではないか。
ところが、アドルノ=ホルクハイマーが近代的合理性、近代理性はどこかで〈野蛮〉にゆきつくんだと看破したように、そうした市街地を「爆心地」に変えてしまうのもまた近代理性の帰結としてあった。
だからこの句のなかでは、どこかでそうした近代的帰結としての理性のおとなしさと野蛮さが同居している。それを〈空〉という超越的=超時間的な場所(トポス)でとらえるのではなく(「ピカッ」の刹那性ではなく)、〈爆心地=市街地〉という時間性と瓦解性を包含せざるをえないような〈足〉からとらえる(超越できない、ずっと続く〈ここ〉とアクセスしつづける〈足〉)。〈足〉をささえるハードウェアからとらえる。そのハードウェアをうみだしたソフトウェアからとらえる。そしてそのソフトウェアが「爆心地」に変え「マラソン」に変え走らせている〈足〉からとらえる。
この句にはそうした側面があるのではないかとおもいます。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬
なぜ、かくもわれわれは、実際には見たことも体験したこともないにもかかわらず、脳裏のどこかに、「世の終わり」と「廃墟/焼け跡」を刻み込んでいるのだろう?
はっきりしたことはわからない。けれども、ひとつだけいえることは、戦後の日本人が、程度の差こそあれ、テレビや映画、漫画やアニメといったサブカルチャーを通じて、「この世の終わり」と「廃墟/焼け跡」を繰り返し繰り返し体験してきたということだ。
放射能によって太古の眠りを醒まされた大怪獣「ゴジラ」に破壊された東京、放射能によって死の星となった地球を救わんとする『宇宙戦艦ヤマト』、サイキック・ウォーズによって瓦礫の山と化す『AKIRA』に描かれた帝都、正体不明の「使徒」に対抗するために、「学徒動員」によって「特攻」を強調される『新世紀エヴァンゲリオン』における子供たち……。
われわれは、その薄っぺらで遠近を欠いた「サブカルチャー的想像力」のなかで、東京を、日本を幾度となく廃墟にし、そしてまた、それを生き延びようとする主人公たちと、凄惨な白兵戦をともにしてきた。
椹木野衣「「爆心地」の芸術」
【空と爆心地】
Chim↑pomというアーティストのひとたちが、広島の上空に飛行機雲で「ピカッ」と描く作品があっていろいろと論議されたのですが、そうした広島の〈空〉としての表象がある一方で、この金子さんの句は、「爆心地」を〈足〉からとらえていることが大きいのではないかとおもうんです(ちなみに金子さんは長崎に勤務していました)。
「マラソン」というものを考えてみると、ふだんは実用的に使用している市街を、その〈どこかにいくための道路〉というソフトウェアを変換して、〈走り・競技するための道路〉をインストールし、ハードウェアだけはそのまま使うというそういうのが「マラソン」だとおもうんです。
つまり、マラソンっていうのは走ることができるための整備された市街地の形成がなければならないし、それをルールに沿って見守るためのコミュニケーション理性をもった公衆が必要とされる。
そうしたどこか近代の帰結、近代的ハードウェア=ソフトウェアの双方をもったものが「マラソン」なのではないか。
ところが、アドルノ=ホルクハイマーが近代的合理性、近代理性はどこかで〈野蛮〉にゆきつくんだと看破したように、そうした市街地を「爆心地」に変えてしまうのもまた近代理性の帰結としてあった。
だからこの句のなかでは、どこかでそうした近代的帰結としての理性のおとなしさと野蛮さが同居している。それを〈空〉という超越的=超時間的な場所(トポス)でとらえるのではなく(「ピカッ」の刹那性ではなく)、〈爆心地=市街地〉という時間性と瓦解性を包含せざるをえないような〈足〉からとらえる(超越できない、ずっと続く〈ここ〉とアクセスしつづける〈足〉)。〈足〉をささえるハードウェアからとらえる。そのハードウェアをうみだしたソフトウェアからとらえる。そしてそのソフトウェアが「爆心地」に変え「マラソン」に変え走らせている〈足〉からとらえる。
この句にはそうした側面があるのではないかとおもいます。
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
手と足をもいだ丸太にしてかえし 鶴彬
なぜ、かくもわれわれは、実際には見たことも体験したこともないにもかかわらず、脳裏のどこかに、「世の終わり」と「廃墟/焼け跡」を刻み込んでいるのだろう?
はっきりしたことはわからない。けれども、ひとつだけいえることは、戦後の日本人が、程度の差こそあれ、テレビや映画、漫画やアニメといったサブカルチャーを通じて、「この世の終わり」と「廃墟/焼け跡」を繰り返し繰り返し体験してきたということだ。
放射能によって太古の眠りを醒まされた大怪獣「ゴジラ」に破壊された東京、放射能によって死の星となった地球を救わんとする『宇宙戦艦ヤマト』、サイキック・ウォーズによって瓦礫の山と化す『AKIRA』に描かれた帝都、正体不明の「使徒」に対抗するために、「学徒動員」によって「特攻」を強調される『新世紀エヴァンゲリオン』における子供たち……。
われわれは、その薄っぺらで遠近を欠いた「サブカルチャー的想像力」のなかで、東京を、日本を幾度となく廃墟にし、そしてまた、それを生き延びようとする主人公たちと、凄惨な白兵戦をともにしてきた。
椹木野衣「「爆心地」の芸術」
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