【感想】「『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』とかどうでしょう?」介助者が云う ミカヅキカゲリ
- 2014/11/14
- 06:30
「『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』とかどうでしょう?」介助者が云う ミカヅキカゲリ
【忘牛存人】
〈短歌〉は基本的には〈答えない〉文芸だとおもっていて、だから〈短歌〉は〈答え〉があるかのように誘いかけながらもどこまでも〈答えはしない〉というのがその基本的視座にあるようにおもうんです。
この歌では、こんなんは「どうでしょう?」と介助者が〈わたし〉に問いかけていますが、〈わたし〉がそれに対して《どう》おもっているかは、わからない。
語り手がどうおもっているのかという答えは出そうでありながらも、答えは書かれはしない。
思考でも、思想でも、探究でも、知識でも、時間でも、経験でもなくて、答えはない。
ただ、ひとつだけ、形式としてわかってくる〈答え〉がある。
なぜ語り手の〈わたし〉は介助者のことばをそのまま抜き出し、ほとんど介助者のことばを形式としての引用によってそのまま歌にすることによって、〈短歌〉になるとおもったのか、ということです。
ここではとくに「」のなかの『』がポイントになるようにおもいます。
『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』
五七五になっているので短歌の上の句の提案かもしれないし、たまたま五七五になっているだけで物語の創作の提案かもしれない。
わかることはなにかの〈提案〉だということです。
しかしその〈提案〉をどういったかたちにおいても〈だれ〉もひきうけないというこの短歌の形式に、この〈提案〉に対する語り手のひとつの態度があるようにおもいます。
そうしたひきうけられない宙づりの形式にすることによって『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』がどこまでも浮遊したまま、続いていく。
そこでは「介助者」もことばの〈介助〉を未遂したまま、ことばのうえで、ただよいつづけてゆく。
ここにはそういった答えがないことという答えが形式化されているようにおもいます。
とくに注意したいのが、「介助者」の提案にはすべて「た」という完了の助動詞がふたつもついていることです。
ところが語り手は「云う」と完了をさけ、答えることもさけ、宙づりのまま、未完の状態にしておく。
こうした時間の脱臼としての語り手の態度もここにはある。
そんなふうに、〈短歌〉には〈答え〉がなく、むしろ〈答え〉をめぐって語り手が言語形式としてどのような態度をとるかが〈短歌〉なんだということがあらわれている短歌のようにおもいます。
暗黒の宇宙に身を投げ
銀河の流れに泳ぎ
両腕に地球を抱きしめ
黙って涙をこぼしている
限りなく無力な
巨人になりたい
谷川俊太郎「美しい夏の朝に」
【忘牛存人】
〈短歌〉は基本的には〈答えない〉文芸だとおもっていて、だから〈短歌〉は〈答え〉があるかのように誘いかけながらもどこまでも〈答えはしない〉というのがその基本的視座にあるようにおもうんです。
この歌では、こんなんは「どうでしょう?」と介助者が〈わたし〉に問いかけていますが、〈わたし〉がそれに対して《どう》おもっているかは、わからない。
語り手がどうおもっているのかという答えは出そうでありながらも、答えは書かれはしない。
思考でも、思想でも、探究でも、知識でも、時間でも、経験でもなくて、答えはない。
ただ、ひとつだけ、形式としてわかってくる〈答え〉がある。
なぜ語り手の〈わたし〉は介助者のことばをそのまま抜き出し、ほとんど介助者のことばを形式としての引用によってそのまま歌にすることによって、〈短歌〉になるとおもったのか、ということです。
ここではとくに「」のなかの『』がポイントになるようにおもいます。
『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』
五七五になっているので短歌の上の句の提案かもしれないし、たまたま五七五になっているだけで物語の創作の提案かもしれない。
わかることはなにかの〈提案〉だということです。
しかしその〈提案〉をどういったかたちにおいても〈だれ〉もひきうけないというこの短歌の形式に、この〈提案〉に対する語り手のひとつの態度があるようにおもいます。
そうしたひきうけられない宙づりの形式にすることによって『夢を視た巨人に追われ墜ちてみた』がどこまでも浮遊したまま、続いていく。
そこでは「介助者」もことばの〈介助〉を未遂したまま、ことばのうえで、ただよいつづけてゆく。
ここにはそういった答えがないことという答えが形式化されているようにおもいます。
とくに注意したいのが、「介助者」の提案にはすべて「た」という完了の助動詞がふたつもついていることです。
ところが語り手は「云う」と完了をさけ、答えることもさけ、宙づりのまま、未完の状態にしておく。
こうした時間の脱臼としての語り手の態度もここにはある。
そんなふうに、〈短歌〉には〈答え〉がなく、むしろ〈答え〉をめぐって語り手が言語形式としてどのような態度をとるかが〈短歌〉なんだということがあらわれている短歌のようにおもいます。
暗黒の宇宙に身を投げ
銀河の流れに泳ぎ
両腕に地球を抱きしめ
黙って涙をこぼしている
限りなく無力な
巨人になりたい
谷川俊太郎「美しい夏の朝に」
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