【感想】三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ 荻原裕幸
- 2014/05/08
- 22:10
三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ 荻原裕幸
【貨幣によって宗教化したこの不断なき聖地のライオン】
ベンヤミンが、世俗においては資本主義が宗教のかわりをしているといった話をしていて、たとえば、ディズニーランドに〈聖地巡礼〉のようにおもむいたり、ブランド商品に後光のような〈アウラ〉を感じて購入する、もしくはタレントやアイドルを〈偶像崇拝〉するといったことだとおもうんですが、この荻原さんの短歌はそのベンヤミンがいった話と共鳴しているところがあるようにおもうんです。
わたしも三越のライオンにふれたことは何度もあるんですが、「何の力だ」と語り手がいみじくもいっているように、言説化できない力が働いているこのライオンとそれに触れるひとびとが「三越」=百貨店=デパートという近代資本主義を活性化させる文化装置のような場所にいるのが大事じゃないかとおもうんです。
たとえばこの短歌の「三越のライオン」をかりにXにしてみると、すごく不気味でとたんに言説化できない宗教性が増します。それは「何の力」かわからないけれども、「触れる」といった接触行為をするために「ひとりふたりさんにん」とひとびとが陸続とつづいていくからです。ところがその「触れる」対象のXが「三越のライオン」であるため、宗教性の代替である資本主義経済の流れのなかで落ち着くのですが、それでも語り手が「何の力だ」と結句で語っているように、表象しきれていないところが大事なようにおもうんです。
つまりこれはベンヤミンが語っていたような都市の資本主義経済のなかに宗教性をみいだしてしまっている歌なのではないかとおもうんです。
ところがその宗教性を「三越のライオン」という広告的記号が掩蔽してしまう。ここではライオンといった生態系の頂点も貨幣との交換価値で流通していくような資本主義によって懐柔された広告的なものでしかない。でも、その流通する交換価値のなかでも「ならんで・ふれる・わけもわからずに」といったような宗教的身体性がとつぜん派生する。
そうした潜在的ネットワークのなかにいる語り手が「三越のライオン」という広告メディアを介して期せずしてネットワークに〈ふれ〉てしまったそういう側面をもった短歌なのではないかとおもうのです。
私の好きなベンヤミンのテキストがあります。「宗教としての資本主義」という実に興味深い小論です。その中でベンヤミンは資本主義はウェーバーが言うような宗教の世俗化ではなく、宗教そのものだと。「資本主義は前代未聞の絶対的、究極的な宗教である。そこでは絶えず崇拝が執り行われ、不断の崇拝、労働すなわち祝祭である」さらに「資本主義とは救済なき宗教」だと。
ベンヤミンに重ねて私が言いたいのは、資本主義は本質的に宗教的現象であるということです。私が宗教の定義に使った「切り離し」。資本主義はその『切り離し』を極限まで押し進めます。宗教は聖と俗を切り離しつつつなぐ通路を示しましたが、資本主義は切り離すばかりで休みなく切り離す。そのメカニズムがあらゆるものを取り込んでゆくのです。芸術、都市、身体、言語、性…。これらすべてが我々から切り離され(イメージという)別の圏域に移される。それこそ資本主義の成功の理由です。要するに商品と同じです。つまり商品は昔からそれ自体の中で「使用価値」と「交換価値」を分別し、分離してきました。今やその自己分離があらゆるものに及んでいるのです。そうした分離の象徴がたとえば「博物館」です。博物館とはかつて生きていたものが置かれている場所。なぜ置かれているかといえば、使用できなくなったからです。
私が気に入っている「冒涜」の概念があります。古代ローマの法律家は「冒涜」を定義して、「聖域に隔離されていたものを人間の卑俗な使用に引き戻すこと」。つまり、冒涜とは聖域のものを自由な使用に引き戻すことだと。
それによってすべてが博物館化するわけです。今は街も博物館と化しています。例えばヴェネチア。かつてのれっきとした都市が今や観光用の博物館。「観光」とは使用不可能性を崇め称えることにほかなりません。
アガンベン『知の記憶・知の未来③ 「生命政治」の時代(放送大学特別講義)』
【貨幣によって宗教化したこの不断なき聖地のライオン】
ベンヤミンが、世俗においては資本主義が宗教のかわりをしているといった話をしていて、たとえば、ディズニーランドに〈聖地巡礼〉のようにおもむいたり、ブランド商品に後光のような〈アウラ〉を感じて購入する、もしくはタレントやアイドルを〈偶像崇拝〉するといったことだとおもうんですが、この荻原さんの短歌はそのベンヤミンがいった話と共鳴しているところがあるようにおもうんです。
わたしも三越のライオンにふれたことは何度もあるんですが、「何の力だ」と語り手がいみじくもいっているように、言説化できない力が働いているこのライオンとそれに触れるひとびとが「三越」=百貨店=デパートという近代資本主義を活性化させる文化装置のような場所にいるのが大事じゃないかとおもうんです。
たとえばこの短歌の「三越のライオン」をかりにXにしてみると、すごく不気味でとたんに言説化できない宗教性が増します。それは「何の力」かわからないけれども、「触れる」といった接触行為をするために「ひとりふたりさんにん」とひとびとが陸続とつづいていくからです。ところがその「触れる」対象のXが「三越のライオン」であるため、宗教性の代替である資本主義経済の流れのなかで落ち着くのですが、それでも語り手が「何の力だ」と結句で語っているように、表象しきれていないところが大事なようにおもうんです。
つまりこれはベンヤミンが語っていたような都市の資本主義経済のなかに宗教性をみいだしてしまっている歌なのではないかとおもうんです。
ところがその宗教性を「三越のライオン」という広告的記号が掩蔽してしまう。ここではライオンといった生態系の頂点も貨幣との交換価値で流通していくような資本主義によって懐柔された広告的なものでしかない。でも、その流通する交換価値のなかでも「ならんで・ふれる・わけもわからずに」といったような宗教的身体性がとつぜん派生する。
そうした潜在的ネットワークのなかにいる語り手が「三越のライオン」という広告メディアを介して期せずしてネットワークに〈ふれ〉てしまったそういう側面をもった短歌なのではないかとおもうのです。
キリスト教ではミサのときにしか起こらないことが、資本主義では日々いつでも起こっている。日常性こそが、ありふれたものではなく、もっとも神秘的でもっとも不思議なものであると明らかにしたのがマルクスの『資本論』です。 田崎英明『マルクス『資本論』入門』
私の好きなベンヤミンのテキストがあります。「宗教としての資本主義」という実に興味深い小論です。その中でベンヤミンは資本主義はウェーバーが言うような宗教の世俗化ではなく、宗教そのものだと。「資本主義は前代未聞の絶対的、究極的な宗教である。そこでは絶えず崇拝が執り行われ、不断の崇拝、労働すなわち祝祭である」さらに「資本主義とは救済なき宗教」だと。
ベンヤミンに重ねて私が言いたいのは、資本主義は本質的に宗教的現象であるということです。私が宗教の定義に使った「切り離し」。資本主義はその『切り離し』を極限まで押し進めます。宗教は聖と俗を切り離しつつつなぐ通路を示しましたが、資本主義は切り離すばかりで休みなく切り離す。そのメカニズムがあらゆるものを取り込んでゆくのです。芸術、都市、身体、言語、性…。これらすべてが我々から切り離され(イメージという)別の圏域に移される。それこそ資本主義の成功の理由です。要するに商品と同じです。つまり商品は昔からそれ自体の中で「使用価値」と「交換価値」を分別し、分離してきました。今やその自己分離があらゆるものに及んでいるのです。そうした分離の象徴がたとえば「博物館」です。博物館とはかつて生きていたものが置かれている場所。なぜ置かれているかといえば、使用できなくなったからです。
私が気に入っている「冒涜」の概念があります。古代ローマの法律家は「冒涜」を定義して、「聖域に隔離されていたものを人間の卑俗な使用に引き戻すこと」。つまり、冒涜とは聖域のものを自由な使用に引き戻すことだと。
それによってすべてが博物館化するわけです。今は街も博物館と化しています。例えばヴェネチア。かつてのれっきとした都市が今や観光用の博物館。「観光」とは使用不可能性を崇め称えることにほかなりません。
アガンベン『知の記憶・知の未来③ 「生命政治」の時代(放送大学特別講義)』
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