【感想】陸続と未来からくる桂一郎・柳谷さん・斉藤・鈴木
- 2014/11/18
- 12:00
父母(ちちはは)よ杖つき歩む夕方のこの桂一郎をご存じですか 岡部桂一郎
ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね 柳谷あゆみ
【読むとは、ご存知であること、自殺しないこと】
どちらもこの短歌の詠み手である〈作者名〉を歌のなかに使っている短歌ですが、このふたつの短歌は構造が似ていると思うんです。
まず大事なことは、この二首の短歌がどちらも〈短歌〉として不特定多数の読み手のもとに言説として届くように組織されながらも、読み手である〈わたしたち〉にむかって話しかけているわけではないということです。
岡部さんの短歌は「桂一郎」の「父母」に話しかけているし、柳谷さんの短歌は「柳谷さん」に話しかけています。
でもこれは短歌です。だからわたしたちが読み手になってこの言説に出会ったときにこの言説が〈短歌〉としてたちあがるようになっている。
だとしたら、問題は、「桂一郎」の「父母」と「柳谷さん」っていうのは、いったい誰なのか、という問題がでてきます。
これはもう、リアルな〈岡部桂一郎の父母〉でも〈柳谷あゆみ〉でもない。なぜならそれは〈短歌〉として組織され、わたしたちと接触を起こすことでたちあがり、この短歌とわたしたちの意味作用がひきおこす構造の相関関係のなかで「(桂一郎の)父母」と「柳谷さん」が駆動していくからです。
だからこれらふたつの短歌はいったい〈なんなのか〉といえば、〈実践的〉な短歌だということになります。
「ご存知」を「ご存知」として巻き込んでいく、「自殺しなくてよかった」を「自殺しなくてよかった」として巻き込んでいく、読むことの実践において。
「この桂一郎をご存知ですか」「柳谷さん自殺しなくてよかったですね」という読み手に投げかける形式の発話がなされていますが、このことによって、読み手がこの短歌を読む=実践するたびに、この短歌は「ご存知です!(なにしろわたしはいまこうして短歌を読んでいるんですから)」「自殺しなくてよかったです!(なにしろわたしはいまこうして短歌を読んでいるんですから)」とオートマティックに〈実践〉ができるようになっている。
なってはいるんだけれども、これらふたつの短歌のミソは、このふたつの短歌がその実践をさせる対象=行為者は「父母よ」「柳谷さん」というように〈われわれ〉を指示してはいないということです。
それはつねに〈わたし以外のだれか〉なんです。呼びかけられているのは、〈このわたし〉ではない。
ところがこれは〈短歌〉ですから、意味を組織化し、言説を構造化するのは〈わたしたち〉なんです。
〈わたし〉としての読み手が、〈わたし以外の誰か〉にリアルな応答はゆずりわたすことになりながらも、しかしいまこの短歌を読み実践している〈わたし〉として引き受けていかざるをえないものがある。
〈リアル〉なことはわかりません。「(桂一郎の)父母」のリアルも「柳谷さん」のリアルもわからない。
しかしこの〈短歌〉を読むことで構造を組織化し実践している〈わたし〉のリアリティは〈読む〉ことから派生している。
そのときそのリアリティとはなんなのか。
「ご存知」リアリティなのか、「自殺しなくてよかった」リアリティなのか、それとも〈読む〉ことからたちあがるリアリティなのか。
それは〈わたし〉がそのつど〈読む〉ことで引き受けていくリアリティです。むしろ、構造がわたしにひきわたしてくる、てのひらのなかににぎらせるリアリティです。
だからわたしたちはリアルな「(桂一郎の)父母」にもリアルな「柳谷さん」にもなれないけれど、でも、「(桂一郎の)父母」のリアリティ、「柳谷さん」のリアリティは、読むことの実践によってひきうけざるをえない。
たとえばそれが「居酒屋」という構造ならば、「居酒屋」の構造が〈わたし〉と〈あなた〉のリアリティを産出していく。
私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる 斉藤斎藤
ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね 柳谷あゆみ
【読むとは、ご存知であること、自殺しないこと】
どちらもこの短歌の詠み手である〈作者名〉を歌のなかに使っている短歌ですが、このふたつの短歌は構造が似ていると思うんです。
まず大事なことは、この二首の短歌がどちらも〈短歌〉として不特定多数の読み手のもとに言説として届くように組織されながらも、読み手である〈わたしたち〉にむかって話しかけているわけではないということです。
岡部さんの短歌は「桂一郎」の「父母」に話しかけているし、柳谷さんの短歌は「柳谷さん」に話しかけています。
でもこれは短歌です。だからわたしたちが読み手になってこの言説に出会ったときにこの言説が〈短歌〉としてたちあがるようになっている。
だとしたら、問題は、「桂一郎」の「父母」と「柳谷さん」っていうのは、いったい誰なのか、という問題がでてきます。
これはもう、リアルな〈岡部桂一郎の父母〉でも〈柳谷あゆみ〉でもない。なぜならそれは〈短歌〉として組織され、わたしたちと接触を起こすことでたちあがり、この短歌とわたしたちの意味作用がひきおこす構造の相関関係のなかで「(桂一郎の)父母」と「柳谷さん」が駆動していくからです。
だからこれらふたつの短歌はいったい〈なんなのか〉といえば、〈実践的〉な短歌だということになります。
「ご存知」を「ご存知」として巻き込んでいく、「自殺しなくてよかった」を「自殺しなくてよかった」として巻き込んでいく、読むことの実践において。
「この桂一郎をご存知ですか」「柳谷さん自殺しなくてよかったですね」という読み手に投げかける形式の発話がなされていますが、このことによって、読み手がこの短歌を読む=実践するたびに、この短歌は「ご存知です!(なにしろわたしはいまこうして短歌を読んでいるんですから)」「自殺しなくてよかったです!(なにしろわたしはいまこうして短歌を読んでいるんですから)」とオートマティックに〈実践〉ができるようになっている。
なってはいるんだけれども、これらふたつの短歌のミソは、このふたつの短歌がその実践をさせる対象=行為者は「父母よ」「柳谷さん」というように〈われわれ〉を指示してはいないということです。
それはつねに〈わたし以外のだれか〉なんです。呼びかけられているのは、〈このわたし〉ではない。
ところがこれは〈短歌〉ですから、意味を組織化し、言説を構造化するのは〈わたしたち〉なんです。
〈わたし〉としての読み手が、〈わたし以外の誰か〉にリアルな応答はゆずりわたすことになりながらも、しかしいまこの短歌を読み実践している〈わたし〉として引き受けていかざるをえないものがある。
〈リアル〉なことはわかりません。「(桂一郎の)父母」のリアルも「柳谷さん」のリアルもわからない。
しかしこの〈短歌〉を読むことで構造を組織化し実践している〈わたし〉のリアリティは〈読む〉ことから派生している。
そのときそのリアリティとはなんなのか。
「ご存知」リアリティなのか、「自殺しなくてよかった」リアリティなのか、それとも〈読む〉ことからたちあがるリアリティなのか。
それは〈わたし〉がそのつど〈読む〉ことで引き受けていくリアリティです。むしろ、構造がわたしにひきわたしてくる、てのひらのなかににぎらせるリアリティです。
だからわたしたちはリアルな「(桂一郎の)父母」にもリアルな「柳谷さん」にもなれないけれど、でも、「(桂一郎の)父母」のリアリティ、「柳谷さん」のリアリティは、読むことの実践によってひきうけざるをえない。
たとえばそれが「居酒屋」という構造ならば、「居酒屋」の構造が〈わたし〉と〈あなた〉のリアリティを産出していく。
私と私が居酒屋なので斉藤と鈴木となってしゃべりはじめる 斉藤斎藤
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