川柳における人体の不思議展・あとがき。
- 2014/11/19
- 12:25
西原天気さんから、『ウラハイ』の「【柳誌拝読】『Senryu So』第6号/終刊号(2014年秋)」において、参加させていただいた『Senryu So』終刊号を紹介していただきました。
西原さん、ありがとうございました!
この記事において、西原さんが八上さんの句における身体モチーフを指摘されていて、それでちょっとまた考えはじめたことなのですが、以前から川柳における独特の身体性のようなものがとても気になっています。
どうも川柳においては身体が取り外し可能なのが常識らしいということです。そういう主題が強くあらわれてくる川柳作家の方には、倉本朝世さんや佐藤みさ子さんなどがすぐに想起されてきます。
たとえば今回の『So』においても、
がたがたしてるぐらぐらしてる こころ 石川街子
手に取ってみたら神様のみみたぶ 妹尾凛
夜の入口ではぐれたくるぶし 八上桐子
「がたがた」という物質性をもつ「こころ」、手に取れる「みみたぶ」、自立して離れる「くるぶし」。
あたかも身体の部位が意志=意思をもち、このわたしが統率できないかたちで独自の意味のネットワークを形成していってしまう。
ただふしぎなのは、川柳としてそれらが組織されたときに、〈これってふしぎだよね〉とならないことです。
むしろ、川柳では〈こうなる〉といった川柳におけるリアリティがある。その〈非-不思議さ〉をわたしは、すごく、〈ふしぎ〉におもいます。
あえていうならば、そこに川柳リアリズムがあるのではないかともおもったりします。
つまり、川柳において、身体はきちんとわたしのコントロール下におかれていてはいけない。
ばらばらな身体が川柳では基本になる、と。
自然主義リアリズムは、〈わたし〉が透明化するくらいに違和感のない(言文一致による)文体によって到達したリアリズムとしての記述です(ことばが〈内面〉化される。ブログやフェイスブックに求められる〈真実性〉もこの自然主義リアリズムにやや似ています)。
まんが・アニメリアリズムでは、記号化されたキャラクターのルールが、データベースとしてバックボーンにあることによってリアリティを担保しています(まんが・アニメではたとえキャラクターが重傷を負っても来週は元通りの身体になっている、というデータベース構築)。
だとしたら、川柳リアリズムはどこからきているのか。
わたしはそのひとつは〈定型〉にあるのではないかとおもっています。
俳句も短歌も定型ではあるものの、俳句は〈季語〉を取り入れることによりそちらにリアリティの重心が傾き(季語が歯止めになる)、短歌はプラス77の〈長さ〉によって〈構造〉としてリアリティが出てくる(構造が歯止めになる)。
ところが、川柳は、575としての定型しかないために、リアリティの重心も構造の核もなく、しかしだからこそ、非リアリズムがリアリズムとしてそのまま受け止められる(というより、〈それ〉しかないので、〈それ〉としてもう受け止めるしかない)。
〈これ〉というよるべきところのない〈よるべなさ〉がむしろ有無をいわさない根拠になっているのではないか。
なにもないゼロだからこそ、手に入れられるゼロ・リアリズム。
いまは、そんなふうに、とりあえず、おもったりもしています。
〈ふしぎ〉なことを〈ふしぎでない〉こととして通してしまう〈ふしぎさ〉。
そこに、わたしがおもっている川柳の〈ふしぎ〉なリアリズムがあります。
これからもかんがえていきたいと思っている川柳の人体の不思議展におけるレポートでした。
体内はまつくら茸山に雨 西原天気
西原さん、ありがとうございました!
この記事において、西原さんが八上さんの句における身体モチーフを指摘されていて、それでちょっとまた考えはじめたことなのですが、以前から川柳における独特の身体性のようなものがとても気になっています。
どうも川柳においては身体が取り外し可能なのが常識らしいということです。そういう主題が強くあらわれてくる川柳作家の方には、倉本朝世さんや佐藤みさ子さんなどがすぐに想起されてきます。
たとえば今回の『So』においても、
がたがたしてるぐらぐらしてる こころ 石川街子
手に取ってみたら神様のみみたぶ 妹尾凛
夜の入口ではぐれたくるぶし 八上桐子
「がたがた」という物質性をもつ「こころ」、手に取れる「みみたぶ」、自立して離れる「くるぶし」。
あたかも身体の部位が意志=意思をもち、このわたしが統率できないかたちで独自の意味のネットワークを形成していってしまう。
ただふしぎなのは、川柳としてそれらが組織されたときに、〈これってふしぎだよね〉とならないことです。
むしろ、川柳では〈こうなる〉といった川柳におけるリアリティがある。その〈非-不思議さ〉をわたしは、すごく、〈ふしぎ〉におもいます。
あえていうならば、そこに川柳リアリズムがあるのではないかともおもったりします。
つまり、川柳において、身体はきちんとわたしのコントロール下におかれていてはいけない。
ばらばらな身体が川柳では基本になる、と。
自然主義リアリズムは、〈わたし〉が透明化するくらいに違和感のない(言文一致による)文体によって到達したリアリズムとしての記述です(ことばが〈内面〉化される。ブログやフェイスブックに求められる〈真実性〉もこの自然主義リアリズムにやや似ています)。
まんが・アニメリアリズムでは、記号化されたキャラクターのルールが、データベースとしてバックボーンにあることによってリアリティを担保しています(まんが・アニメではたとえキャラクターが重傷を負っても来週は元通りの身体になっている、というデータベース構築)。
だとしたら、川柳リアリズムはどこからきているのか。
わたしはそのひとつは〈定型〉にあるのではないかとおもっています。
俳句も短歌も定型ではあるものの、俳句は〈季語〉を取り入れることによりそちらにリアリティの重心が傾き(季語が歯止めになる)、短歌はプラス77の〈長さ〉によって〈構造〉としてリアリティが出てくる(構造が歯止めになる)。
ところが、川柳は、575としての定型しかないために、リアリティの重心も構造の核もなく、しかしだからこそ、非リアリズムがリアリズムとしてそのまま受け止められる(というより、〈それ〉しかないので、〈それ〉としてもう受け止めるしかない)。
〈これ〉というよるべきところのない〈よるべなさ〉がむしろ有無をいわさない根拠になっているのではないか。
なにもないゼロだからこそ、手に入れられるゼロ・リアリズム。
いまは、そんなふうに、とりあえず、おもったりもしています。
〈ふしぎ〉なことを〈ふしぎでない〉こととして通してしまう〈ふしぎさ〉。
そこに、わたしがおもっている川柳の〈ふしぎ〉なリアリズムがあります。
これからもかんがえていきたいと思っている川柳の人体の不思議展におけるレポートでした。
体内はまつくら茸山に雨 西原天気
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