【感想】考えれば十センチ以上の生き物を殺していない我のてのひら 吉川宏志
- 2014/11/20
- 06:00
考えれば十センチ以上の生き物を殺していない我のてのひら 吉川宏志
【〈わが〉手から〈我の〉てのひらへ】
この吉川さんの「てのひら」の歌を啄木の有名な歌に共振させながらすこし考えてみたいとおもいます。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
ぢつと手を見る 石川啄木
もし〈短歌史〉のなかにおいて〈手〉の系譜があるとするならば、この啄木の〈手〉はある意味、非常に特権的な意味生成をもつ〈手〉になるとおもうんですよね。
たぶん、ほとんどのひとが暗唱できる、想起できる〈手〉なんじゃないかと。
で、この〈手〉を吉川さんの歌からふりかえってみると、この啄木の歌の〈手〉というのは徹頭徹尾〈自分〉の枠組みのなかでとらえられている〈手〉ということになるとおもいます。
働いても働いても楽にならない。だから、〈手〉をみることによって、この〈手=自分〉がうまく機能していないことをみつめているのかもしれないし、この〈手=自分〉がもういちど、いまわたしがここに生きてあることからエネルギーをくれようとしているのかもしれない。
どちらにしても、この〈手〉は自己に終始しているのではないか。
これに対して、吉川さんの歌の〈手〉は、〈他者の枠組みから参照されるじぶん〉という枠組みにおける〈手〉です。
つまりこのわたしのこの〈手〉は、じぶんをいかしたりころしたりするだけではない。他者の命を奪う〈手〉としてもある。そしてそれは、いつでも潜在的な殺意として他者とネガティヴにつながりながら存在している手でもあります。
それは、「十センチ以上の生き物を殺していない」という反記述からもわかります。つまり、「十センチ未満の生き物は殺してきた」んだと。
このわたしの「てのひら」はそうした生命の与奪の感覚の分水峰としても機能している。だからこそ「手」ではなく、「てのひら」とここで書いてあるのはおおきい。
それは読み手に〈サイズ〉=〈大きさ〉=〈殺せる/殺せない実感〉としての〈手〉を面として伝えるからです。
そうしてそうした啄木的自己の〈手〉から、他者を巻き込んでいるネットワーク的〈てのひら〉への置換としてこの吉川さんの歌はあるのではないかとおもったりもするのです。
初句の「考えれば」というのもとても意味をもっています。
〈考えなければ〉気がつかないほどにはわたしたちは他者のネットワークに微細(十センチ以上・未満)に巻き込まれている。
それが、生命の与奪であろうとも。
「わが生活(くらし)」はそうした潜在的な他者のネットワークに〈てのひら〉をとおして無意識の身体として埋め込まれている。
そういう一面をもったうたのではないかと、おもいます。
わが手を、我のてのひらを、他者のネットワークのなかに手放し、解き放つこと。
画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ 吉川宏志
【〈わが〉手から〈我の〉てのひらへ】
この吉川さんの「てのひら」の歌を啄木の有名な歌に共振させながらすこし考えてみたいとおもいます。
はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)樂にならざり
ぢつと手を見る 石川啄木
もし〈短歌史〉のなかにおいて〈手〉の系譜があるとするならば、この啄木の〈手〉はある意味、非常に特権的な意味生成をもつ〈手〉になるとおもうんですよね。
たぶん、ほとんどのひとが暗唱できる、想起できる〈手〉なんじゃないかと。
で、この〈手〉を吉川さんの歌からふりかえってみると、この啄木の歌の〈手〉というのは徹頭徹尾〈自分〉の枠組みのなかでとらえられている〈手〉ということになるとおもいます。
働いても働いても楽にならない。だから、〈手〉をみることによって、この〈手=自分〉がうまく機能していないことをみつめているのかもしれないし、この〈手=自分〉がもういちど、いまわたしがここに生きてあることからエネルギーをくれようとしているのかもしれない。
どちらにしても、この〈手〉は自己に終始しているのではないか。
これに対して、吉川さんの歌の〈手〉は、〈他者の枠組みから参照されるじぶん〉という枠組みにおける〈手〉です。
つまりこのわたしのこの〈手〉は、じぶんをいかしたりころしたりするだけではない。他者の命を奪う〈手〉としてもある。そしてそれは、いつでも潜在的な殺意として他者とネガティヴにつながりながら存在している手でもあります。
それは、「十センチ以上の生き物を殺していない」という反記述からもわかります。つまり、「十センチ未満の生き物は殺してきた」んだと。
このわたしの「てのひら」はそうした生命の与奪の感覚の分水峰としても機能している。だからこそ「手」ではなく、「てのひら」とここで書いてあるのはおおきい。
それは読み手に〈サイズ〉=〈大きさ〉=〈殺せる/殺せない実感〉としての〈手〉を面として伝えるからです。
そうしてそうした啄木的自己の〈手〉から、他者を巻き込んでいるネットワーク的〈てのひら〉への置換としてこの吉川さんの歌はあるのではないかとおもったりもするのです。
初句の「考えれば」というのもとても意味をもっています。
〈考えなければ〉気がつかないほどにはわたしたちは他者のネットワークに微細(十センチ以上・未満)に巻き込まれている。
それが、生命の与奪であろうとも。
「わが生活(くらし)」はそうした潜在的な他者のネットワークに〈てのひら〉をとおして無意識の身体として埋め込まれている。
そういう一面をもったうたのではないかと、おもいます。
わが手を、我のてのひらを、他者のネットワークのなかに手放し、解き放つこと。
画家が絵を手放すように春は暮れ林のなかの坂をのぼりぬ 吉川宏志
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