【感想】ストールが丸めて置かれ手袋がひしやげて置かれわたしがゐない 田中槐
- 2014/11/21
- 06:30
ストールが丸めて置かれ手袋がひしやげて置かれわたしがゐない 田中槐
【〈わたし探し〉から〈わたし遊び〉にある裂け目】
短歌は、〈衣服〉=〈モード〉=〈ファッション〉をどうとらえてきたのかということに興味があるんですが、たとえばこの田中さんの歌では、むしろじぶんがふだん身につけている服飾=モードのほうに身体性がうつっていることのぶきみさと喪失感があるとおもうんです。
この歌で注意してみたいのは、「ストール」や「手袋」という〈衣服〉というよりは、プラスアルファのファッションである点です。
保温という使用価値もあるものの、むしろ〈みる/みられる〉関係を強く打ち出す記号価値=交換価値がつよくでてくるものでもあるとおもうんです。
ところが語り手はそうした〈余剰〉に〈わたし〉を見出し、その〈余剰〉に〈わたし〉の〈喪失〉を感じている。
米澤泉さんがファッションについてこんな指摘をしています。
80年代がファッションによる私探しの時代ならば、90年代以降は化粧による「私遊び」の時代である。日替わりでさまざまな「私」になり、いくつものキャラになりきることで、「私」を着替え、「私」で遊ぶ。モノで私を表現する時代から、モノのように「私」を遊ぶ時代へ。 米澤泉『コスメの時代』
かんたんにいうと、〈わたし〉を探す時代という〈本質的わたし〉、から、〈わたし〉を遊ぶ時代という〈キャラクター的わたし〉にファッションは移り変わっていったということだとおもうんですが、でもそうしたキャラクター的わたしのなかで、根本的に欠如としてつねに潜在されている〈わたし〉が出てくる。
もし、モードがさまざまなキャラクターの往還関係でしかなくなっているのだとしたら、ときどきふっと深淵から圧倒的な「わたしがゐない」としてぶきみな裂け目がでてくる瞬間があるのではないか。そういう歌としてもあるのではないかとおもうのです。
このキャラクター=モード論は、もしかすると、短歌における〈わたし〉や小説、ライトノベルなどのデータベース的享受による表現領域とも関わっているかもしれないともおもったりします。
服=ファッション=モードが、歴史文化として時代と結合していくときに、ことばとしてあらわれたモードは、そこにどのような〈わたし〉として浮かびあがり、浮かびそこねていくのか。
もちろん、生きているわたしたちが規定されていくモードは、生(者)だけでなく、(モードから解放された)死(者)の領域ともかかわっていきます。
喪服着て入るいつものコンビニにいつもの店員が立っているなり 俵万智
90年代、女性たちの関心はファッションよりもコスメに移った。個性的な服よりもネイルアート。ファッション誌よりも化粧情報誌。日本女性のマスカラの消費量は急増し、「目力」という言葉が生み出された。衣服から身体へ。 米澤泉『私に萌える女たち』
【〈わたし探し〉から〈わたし遊び〉にある裂け目】
短歌は、〈衣服〉=〈モード〉=〈ファッション〉をどうとらえてきたのかということに興味があるんですが、たとえばこの田中さんの歌では、むしろじぶんがふだん身につけている服飾=モードのほうに身体性がうつっていることのぶきみさと喪失感があるとおもうんです。
この歌で注意してみたいのは、「ストール」や「手袋」という〈衣服〉というよりは、プラスアルファのファッションである点です。
保温という使用価値もあるものの、むしろ〈みる/みられる〉関係を強く打ち出す記号価値=交換価値がつよくでてくるものでもあるとおもうんです。
ところが語り手はそうした〈余剰〉に〈わたし〉を見出し、その〈余剰〉に〈わたし〉の〈喪失〉を感じている。
米澤泉さんがファッションについてこんな指摘をしています。
80年代がファッションによる私探しの時代ならば、90年代以降は化粧による「私遊び」の時代である。日替わりでさまざまな「私」になり、いくつものキャラになりきることで、「私」を着替え、「私」で遊ぶ。モノで私を表現する時代から、モノのように「私」を遊ぶ時代へ。 米澤泉『コスメの時代』
かんたんにいうと、〈わたし〉を探す時代という〈本質的わたし〉、から、〈わたし〉を遊ぶ時代という〈キャラクター的わたし〉にファッションは移り変わっていったということだとおもうんですが、でもそうしたキャラクター的わたしのなかで、根本的に欠如としてつねに潜在されている〈わたし〉が出てくる。
もし、モードがさまざまなキャラクターの往還関係でしかなくなっているのだとしたら、ときどきふっと深淵から圧倒的な「わたしがゐない」としてぶきみな裂け目がでてくる瞬間があるのではないか。そういう歌としてもあるのではないかとおもうのです。
このキャラクター=モード論は、もしかすると、短歌における〈わたし〉や小説、ライトノベルなどのデータベース的享受による表現領域とも関わっているかもしれないともおもったりします。
服=ファッション=モードが、歴史文化として時代と結合していくときに、ことばとしてあらわれたモードは、そこにどのような〈わたし〉として浮かびあがり、浮かびそこねていくのか。
もちろん、生きているわたしたちが規定されていくモードは、生(者)だけでなく、(モードから解放された)死(者)の領域ともかかわっていきます。
喪服着て入るいつものコンビニにいつもの店員が立っているなり 俵万智
90年代、女性たちの関心はファッションよりもコスメに移った。個性的な服よりもネイルアート。ファッション誌よりも化粧情報誌。日本女性のマスカラの消費量は急増し、「目力」という言葉が生み出された。衣服から身体へ。 米澤泉『私に萌える女たち』
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