【感想】「相談があります。どこにいますか?」とメールが届く五時五十五分 千葉聡
- 2014/11/21
- 12:00
「相談があります。どこにいますか?」とメールが届く五時五十五分 千葉聡
【「相談があります。(作者は)どこにいますか?」】
短歌・俳句・川柳を読む際に〈作者情報〉をどうしたらいいのかということをときどき考えていて、とくに上の句と下の句で〈構造〉ができあがってしまう短歌の場合は、〈作者情報〉によって短歌自体の位相ががらっと変わってしまったりします。
たとえば、その例がうえの千葉さんの短歌になります。
この歌で問題なのは、〈だれ〉が〈だれ〉に相談しようとしているのか、ということです。
たとえばあえて〈作者情報〉を枠組みにして読んでみると、千葉聡さんは教師をされているので、これは〈生徒〉から〈先生〉への相談なのかな、ということになります。
そのときに、「メール」という〈学校〉のディスクールに縛られない私的な発話ができる媒体性や、「五時五十五分」という早朝・夕方の「五時五十五分」どちらにしても〈学校〉という制度に縛られない私的時間帯などがこの短歌のドラマを形成していくとおもいます。
もし朝の五時ならこれから学校が始まるのだから、学校の相談かもしれないし、夕方の五時ならこれから夜がはじまるので、学校外の相談かもしれない。
しかしあえてそこを語り手が明示しなかった意味もあるかもしれない。
いろんな枠組みがでてきます。
まったく〈作者情報〉なしで読んでみるとどうなのか。
その場合はたとえば〈ていねい語〉。
相手は〈ていねい語〉を使う関係でありながら、メールで相談してきています。
ことばでは距離感がありながらも、メールといういつでも密接にコミュニケーションできる距離感で相談をうちあけてくるところにこれから〈距離の葛藤〉としてのドラマが始まるのではないかという予兆をかんじさせます。
また、なぜ語り手が時間を明記したのかも、読むための枠組みになります。
「五時五十五分」と語り手が明記したということは、明記しなければならない理由があったということです。
語り手にとっては、これから相談者の相談を受けることである意味、相談者と語り手のあいだでひとつの〈歴史〉がかたちづくられていくかもしれない。ある時点で時間が明記され、それが短歌としてとどめられ刻印されるということはそういうことになるのではないかとおもいます。
そしてこの時間の明記は、これから起こる出来事(イヴェント)が、時間の枠組みのなかで起こっていくこと。時間的に有限であるかもしれないことも想起させていきます。
つまり、わりあい、語り手にとってもシリアスな相談になるかもしれないということです。
こんなふうに、〈作者情報〉あるなし、で、位相のちがう取り組み方ができるとおもうんです。
では、どうするか。
ずるい言い方ですが、〈どちらもあり〉なのではないかとおもいます。
というよりも、これは詠み手の問題ではなく、読み手の位置性の問題になってくるのではないか。
〈わたしはこう読む〉という態度で〈わたし〉の有限的位置から読んでみる。
しかし、〈あなたはこう読む〉という位置性もあることは、気にしておく。
そのうちに、〈わたしはこう読む〉と〈あなたはこう読む〉が折衝される瞬間が、くる。
そのとき、もういちど、短歌や俳句や川柳の強度が試されるようにも、おもうのです。
だから、〈なに〉が〈正しい〉かではなく、〈どう〉読みがぶつかりあうことによって、〈どう〉くいちがい、ずれ、ぶれ、そのぶつかりあいのなかにおいて、読み手が〈どう〉短詩に向き合っているかという位置性もつまびらかになっていく過程もろもろも含めての、短詩が発していく磁場なのではないかとおもうのです。
そしてそれをくりかえしたものが〈歴史化〉されていくのではないかと。
歴史とは、隠れ/暴かれた視線をぶつからせること。
「坂井さんいつも見てます」さう言ひて席たちしひといまもおそろし 坂井修一
批評の歴史は、映画文化の受容の役割に対する闘争の場であり、それは、観客の観方を統御する勢力としてと、意味を囲い込むシステムを回避したり、それに抵抗したりする観方を進める推進力としての両方で役割を演じてきた。 アーロン・ジェロー『観客へのアプローチ』
【「相談があります。(作者は)どこにいますか?」】
短歌・俳句・川柳を読む際に〈作者情報〉をどうしたらいいのかということをときどき考えていて、とくに上の句と下の句で〈構造〉ができあがってしまう短歌の場合は、〈作者情報〉によって短歌自体の位相ががらっと変わってしまったりします。
たとえば、その例がうえの千葉さんの短歌になります。
この歌で問題なのは、〈だれ〉が〈だれ〉に相談しようとしているのか、ということです。
たとえばあえて〈作者情報〉を枠組みにして読んでみると、千葉聡さんは教師をされているので、これは〈生徒〉から〈先生〉への相談なのかな、ということになります。
そのときに、「メール」という〈学校〉のディスクールに縛られない私的な発話ができる媒体性や、「五時五十五分」という早朝・夕方の「五時五十五分」どちらにしても〈学校〉という制度に縛られない私的時間帯などがこの短歌のドラマを形成していくとおもいます。
もし朝の五時ならこれから学校が始まるのだから、学校の相談かもしれないし、夕方の五時ならこれから夜がはじまるので、学校外の相談かもしれない。
しかしあえてそこを語り手が明示しなかった意味もあるかもしれない。
いろんな枠組みがでてきます。
まったく〈作者情報〉なしで読んでみるとどうなのか。
その場合はたとえば〈ていねい語〉。
相手は〈ていねい語〉を使う関係でありながら、メールで相談してきています。
ことばでは距離感がありながらも、メールといういつでも密接にコミュニケーションできる距離感で相談をうちあけてくるところにこれから〈距離の葛藤〉としてのドラマが始まるのではないかという予兆をかんじさせます。
また、なぜ語り手が時間を明記したのかも、読むための枠組みになります。
「五時五十五分」と語り手が明記したということは、明記しなければならない理由があったということです。
語り手にとっては、これから相談者の相談を受けることである意味、相談者と語り手のあいだでひとつの〈歴史〉がかたちづくられていくかもしれない。ある時点で時間が明記され、それが短歌としてとどめられ刻印されるということはそういうことになるのではないかとおもいます。
そしてこの時間の明記は、これから起こる出来事(イヴェント)が、時間の枠組みのなかで起こっていくこと。時間的に有限であるかもしれないことも想起させていきます。
つまり、わりあい、語り手にとってもシリアスな相談になるかもしれないということです。
こんなふうに、〈作者情報〉あるなし、で、位相のちがう取り組み方ができるとおもうんです。
では、どうするか。
ずるい言い方ですが、〈どちらもあり〉なのではないかとおもいます。
というよりも、これは詠み手の問題ではなく、読み手の位置性の問題になってくるのではないか。
〈わたしはこう読む〉という態度で〈わたし〉の有限的位置から読んでみる。
しかし、〈あなたはこう読む〉という位置性もあることは、気にしておく。
そのうちに、〈わたしはこう読む〉と〈あなたはこう読む〉が折衝される瞬間が、くる。
そのとき、もういちど、短歌や俳句や川柳の強度が試されるようにも、おもうのです。
だから、〈なに〉が〈正しい〉かではなく、〈どう〉読みがぶつかりあうことによって、〈どう〉くいちがい、ずれ、ぶれ、そのぶつかりあいのなかにおいて、読み手が〈どう〉短詩に向き合っているかという位置性もつまびらかになっていく過程もろもろも含めての、短詩が発していく磁場なのではないかとおもうのです。
そしてそれをくりかえしたものが〈歴史化〉されていくのではないかと。
歴史とは、隠れ/暴かれた視線をぶつからせること。
「坂井さんいつも見てます」さう言ひて席たちしひといまもおそろし 坂井修一
批評の歴史は、映画文化の受容の役割に対する闘争の場であり、それは、観客の観方を統御する勢力としてと、意味を囲い込むシステムを回避したり、それに抵抗したりする観方を進める推進力としての両方で役割を演じてきた。 アーロン・ジェロー『観客へのアプローチ』
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