【感想】ファイルX:緑のひとを捜せ!!-誰も信じるな(ピクトさんも)-
- 2014/11/28
- 12:00
【真実は非常口にある】
非常口をみるたびに私が思いだしているなかはられいこさんの次のような句があります。
非常口の緑の人と森へゆく なかはられいこ
ここではみっつの〈読み換え〉=位相の変化がそれぞれ関係しあいながらなされていることがポイントです。
ひとつは、「非常口」です。
「非常口」はあくまで非常用の出口なのですが、ここでは〈非常用〉の出口というよりは、〈非(日)常用〉への入り口になっています。
ふたつめは、「緑の人」です。あくまで指示記号としてある「非常口」のマークを「緑の人」と受肉化させ、身体化させ、主体化させる。
これによって記号は〈指示〉ではなく、その記号自体が主体的に実践しはじめる〈行為体〉になります。
このマークは世界標準記号とのことなので、ここではそうした世界レベルで認定されているマークを「人」とすることによって〈わたし〉との関係性に置き換えた〈わたし〉対〈緑の人〉との関係性へとずらしています。
みっつめは、「森へゆく」です。これはカラーの読み換えということになります。非常口が緑なのは、赤と緑が補色の関係にあり、炎のなかでも目立つようにするために緑であるとのことですが、ここではその緑自体がひとつの生態系としての場である「森」にズラされています。
こんなふうに、「非常口」の読み換え、「緑の人」の読み換え、「森へゆく」の読み換えという三つの読み換えがめいめいに関係しあいながら、「非日常口」をつくっていくのがこの句のおもしろさなのではないかとおもいます。
そしてこの句でもっとも大事なのが中7の「緑の人と」の「と」という動作・作用の共同者を表す格助詞です。
この「と」に語り手の〈私性〉および、その「緑の人」の〈私性〉が込められています。
語り手は「緑の人と」ゆくわけですが、この「と」によって語り手と「緑の人」は等価関係になり、〈わたし〉の世界と〈緑の人〉の世界が節合されるのです。
ですから、この「と」はある意味、〈日常性〉でもあると思います。この「と」でもって、語り手は「非日常口」をみずからの〈日常性〉として受け止めようともしている。ちなみにこの連結していく「と」の作用をたいへん気遣っていたのが、ドゥルーズでした。
「と」はおたがいを吸収させることも、位階関係におおくことも、主従の関係におくこともせず、ただただ並べていく。関係をおきながらも、関係をむすび、そしてさらに「と」が続く可能性をも残しているのが、「と」です。だから「緑の人と森へゆく」可能性は、〈わたし〉でなく無数の後続の〈あなた〉にも、ある。
ここで川柳における「緑の人」を捜索したんですが、短歌においては「緑の人」はどうなっているのか。
「非常口」の緑の人は駆け出してスカート買いに行くところです 穂村弘
この穂村さんの歌がおもしろいのは、「緑の人」にジェンダーを与えているところです。
「緑の人」はおそらく前提として男性ジェンダー化されている。それは非常口のマークの記号がおそらくは他の指示記号、たとえば紳士トイレの男性を指示する記号などと隣接しあうためです。
しかし穂村さんの歌ではそういったジェンダー構成が逆転してしまう。
つまりここでの「非常口」は与えられたジェンダー・アイデンティティから抜け出すための〈非常口〉になっている。
それがこの歌のおもしろさになっているのではないかとおもいます。
以上で、今回のファイル報告を終わります。
次回のファイルXの捜査指令は、
森をゆくみどりの列車からおりた背のたかいひとを追ってください イソカツミ
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