【感想】NHKが終わる私たちも終わる 山口亜都子
- 2014/11/28
- 20:58
NHKが終わる私たちも終わる 山口亜都子
【風が吹くとき】
丸山進さんによってていねいな紹介がなされているが(「紙飛行機に乗る時間」 山口亜都子・句集」)、わたしは以前、山口さんのうえの句をひとめみたとき、めちゃくちゃびびったのであった。
ああそうか、こんな絶滅=ディストピアの描き方があったんだとおもった。
ちなみに短歌においてはわたしは、木下龍也さんがディストピアの主題を短歌化しているとおもっている。
たとえば、
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
ぼくたちは月でアダムとイブになるNASAの警告なんか無視して 〃
砂浜にH・E・Lまで書いてLを付け足し力尽きよう 〃
木下さんの短歌のディストピアの場合、〈人類〉視点と〈ぼく〉が全滅の一点で交錯するところがおもしろいのかなとおもっている。
それは〈人類〉の全滅なのだけれども、しかしその〈全滅〉のすべてに〈ぼく〉のいまここが関わっていく。
一方、山口さんの全滅川柳はメディアから〈終わり〉が、くる。
この川柳のこわいところは、〈所与〉のものとされていることが〈終わり〉なときに〈わたしたち〉の〈終わり〉がくるというメディアが先行している社会にある。
つまり、〈わたし〉が死んでも実はどうということは、ない。〈極私性〉は〈わたし〉の死にはならない。
しかし、社会の無意識として前提化されている「NHK」が〈終われ〉ば、〈わたしたち〉は〈終わる〉のだ。
つまり、〈わたし〉の〈私性=死性〉というのは、このわたしにあるのではなく、メディア=社会のハードウェアのほうにあるのだ。
全滅というのは、わたしが死ぬことではなく、社会が死ぬことなのである。
それをたった17音で描いてしまっている。
17音で、わたしたちは、全滅する。
おそろしいことだ。
おそろしいことだけれど、川柳とは、そもそもそういうふうな〈おそろしさ〉をはじめから胚胎している。
なぜなら17音としての〈全滅〉の〈一回性〉を川柳として反復しつづけてゆくことが、そのディストピアを耐え抜くことが川柳性だからである。
それがどんなに素晴らしいものであっても、17音で、おわるのだ。17音という、いっしゅんで。
この人も人類なんだと言い聞かす 山口亜都子
【風が吹くとき】
丸山進さんによってていねいな紹介がなされているが(「紙飛行機に乗る時間」 山口亜都子・句集」)、わたしは以前、山口さんのうえの句をひとめみたとき、めちゃくちゃびびったのであった。
ああそうか、こんな絶滅=ディストピアの描き方があったんだとおもった。
ちなみに短歌においてはわたしは、木下龍也さんがディストピアの主題を短歌化しているとおもっている。
たとえば、
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
ぼくたちは月でアダムとイブになるNASAの警告なんか無視して 〃
砂浜にH・E・Lまで書いてLを付け足し力尽きよう 〃
木下さんの短歌のディストピアの場合、〈人類〉視点と〈ぼく〉が全滅の一点で交錯するところがおもしろいのかなとおもっている。
それは〈人類〉の全滅なのだけれども、しかしその〈全滅〉のすべてに〈ぼく〉のいまここが関わっていく。
一方、山口さんの全滅川柳はメディアから〈終わり〉が、くる。
この川柳のこわいところは、〈所与〉のものとされていることが〈終わり〉なときに〈わたしたち〉の〈終わり〉がくるというメディアが先行している社会にある。
つまり、〈わたし〉が死んでも実はどうということは、ない。〈極私性〉は〈わたし〉の死にはならない。
しかし、社会の無意識として前提化されている「NHK」が〈終われ〉ば、〈わたしたち〉は〈終わる〉のだ。
つまり、〈わたし〉の〈私性=死性〉というのは、このわたしにあるのではなく、メディア=社会のハードウェアのほうにあるのだ。
全滅というのは、わたしが死ぬことではなく、社会が死ぬことなのである。
それをたった17音で描いてしまっている。
17音で、わたしたちは、全滅する。
おそろしいことだ。
おそろしいことだけれど、川柳とは、そもそもそういうふうな〈おそろしさ〉をはじめから胚胎している。
なぜなら17音としての〈全滅〉の〈一回性〉を川柳として反復しつづけてゆくことが、そのディストピアを耐え抜くことが川柳性だからである。
それがどんなに素晴らしいものであっても、17音で、おわるのだ。17音という、いっしゅんで。
この人も人類なんだと言い聞かす 山口亜都子
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