【感想】遡上する記憶ゆめのぱふぱふ 田中流転
- 2014/11/30
- 00:01
遡上する記憶ゆめのぱふぱふ 田中流転
【ぱふぱふとは、なんだったのか。結局わたしたちはぱふぱふに到達できたのか】
ぱふぱふとは、なんだったのか、という問題があって、たとえば、『ドラゴンボール』ではこんなふうに説明されている。
それから『ドラゴンクエスト』では、こうである。
わたしが〈ぱふぱふ〉に関して興味深くおもっているのは、『ドラゴンクエスト』が引いてきた〈性の主題〉である(これはアメリカに『ドラゴンクエスト』が輸出される際にすべて性の主題が抜き去られた翻訳がなされることによってかえって『ドラゴンクエスト』の性の主題は顕著になる。詳しくは八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説』)。
『ドラゴンクエスト』は、〈性の主題〉をそのストーリーのなかに取り込んできた。
たとえば、「ぱふぱふ」もそうだし、「宿屋の主人」が「昨晩はおたのしみでしたね」といったり、「あぶないみずぎ」が装備できたりするなど。
流転さんの句には、「ぱふぱふ」の前に「遡上する記憶」や「ゆめの」が出てきており、そうした「記憶」と「ゆめ」をはしごしてこそ「ぱふぱふ」にたどりつけるのだが、実は『ドラゴンクエスト』とはそうした〈性の主題〉をひきこむことによってプレイヤーに〈勇者〉との一線を画していたのではないかとあえていってみたい。
これは「ふっかつのじゅもん」ともアナロジカルに連動している。
「ふっかつのじゅもん」とは、毎回ゲームを前回やめたところから再開するために、じぶんでメモしたながいながいまったく無意味なひらがなの羅列を入力することだが、これは「ふっかつのじゅもん」というデジタルに対し、それを書き写す〈わたし〉はアナログであるために、ときどき書き写しまちがえていて、悲惨なことになるケースがおおい。
この事態が意味するのは、ゲームとは、わたしたちが理解することができないコードの領域をもっていること、ラカンでいえば〈現実界〉がつねに現前化している領域であるということである。
「ふっかつのじゅもんがちがいます」はコード化することも理解することも言語化することもできない現実界=現実的なものとして屹立するし(象徴界=言語の挫折)、一方、「ぱふぱふ」もコード化することも想像することも言語化することも到達することもかなわないやはり現実界=現実的なもの、としてある。
もちろん、ドットでセクシュアリティやたくましさや死をあらわすのだから、それはいつでも想像界がふきあれる場としてあるのだが、しかし現実界をいちいち露呈することによって(たとえば、バグもそう)、ゲームはわたしたちプレイヤーに対して〈勇者にさせない〉一線もひいている。
しかしだからこそ、わたしたちはゲームを〈手離さない〉。
ある意味、勇者としての主体化の欲望と挫折の鏡像段階の連鎖のはてに、到達できない現実界としてのぱふぱふとふっかつのじゅもんがほのめいている。
ラカンなら、ぱふぱふをなんと説明しただろう。
ロラン・バルトなら、どうだろう。
「ぱふぱふは、あふれ、せきとめられ、流れさるものである。」といっただろうか。
砂の数ほどの男がゆめをみて夢がついえてぱふぱふの宵 工藤吉生
【ぱふぱふとは、なんだったのか。結局わたしたちはぱふぱふに到達できたのか】
ぱふぱふとは、なんだったのか、という問題があって、たとえば、『ドラゴンボール』ではこんなふうに説明されている。
それから『ドラゴンクエスト』では、こうである。
わたしが〈ぱふぱふ〉に関して興味深くおもっているのは、『ドラゴンクエスト』が引いてきた〈性の主題〉である(これはアメリカに『ドラゴンクエスト』が輸出される際にすべて性の主題が抜き去られた翻訳がなされることによってかえって『ドラゴンクエスト』の性の主題は顕著になる。詳しくは八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説』)。
『ドラゴンクエスト』は、〈性の主題〉をそのストーリーのなかに取り込んできた。
たとえば、「ぱふぱふ」もそうだし、「宿屋の主人」が「昨晩はおたのしみでしたね」といったり、「あぶないみずぎ」が装備できたりするなど。
流転さんの句には、「ぱふぱふ」の前に「遡上する記憶」や「ゆめの」が出てきており、そうした「記憶」と「ゆめ」をはしごしてこそ「ぱふぱふ」にたどりつけるのだが、実は『ドラゴンクエスト』とはそうした〈性の主題〉をひきこむことによってプレイヤーに〈勇者〉との一線を画していたのではないかとあえていってみたい。
これは「ふっかつのじゅもん」ともアナロジカルに連動している。
「ふっかつのじゅもん」とは、毎回ゲームを前回やめたところから再開するために、じぶんでメモしたながいながいまったく無意味なひらがなの羅列を入力することだが、これは「ふっかつのじゅもん」というデジタルに対し、それを書き写す〈わたし〉はアナログであるために、ときどき書き写しまちがえていて、悲惨なことになるケースがおおい。
この事態が意味するのは、ゲームとは、わたしたちが理解することができないコードの領域をもっていること、ラカンでいえば〈現実界〉がつねに現前化している領域であるということである。
「ふっかつのじゅもんがちがいます」はコード化することも理解することも言語化することもできない現実界=現実的なものとして屹立するし(象徴界=言語の挫折)、一方、「ぱふぱふ」もコード化することも想像することも言語化することも到達することもかなわないやはり現実界=現実的なもの、としてある。
もちろん、ドットでセクシュアリティやたくましさや死をあらわすのだから、それはいつでも想像界がふきあれる場としてあるのだが、しかし現実界をいちいち露呈することによって(たとえば、バグもそう)、ゲームはわたしたちプレイヤーに対して〈勇者にさせない〉一線もひいている。
しかしだからこそ、わたしたちはゲームを〈手離さない〉。
ある意味、勇者としての主体化の欲望と挫折の鏡像段階の連鎖のはてに、到達できない現実界としてのぱふぱふとふっかつのじゅもんがほのめいている。
ラカンなら、ぱふぱふをなんと説明しただろう。
ロラン・バルトなら、どうだろう。
「ぱふぱふは、あふれ、せきとめられ、流れさるものである。」といっただろうか。
砂の数ほどの男がゆめをみて夢がついえてぱふぱふの宵 工藤吉生
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