【感想】ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
- 2014/12/01
- 17:39
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之
【俳句と川柳から近く/遠く離れて】
ときどき俳句と川柳のちがいについてかんがえたりしています。またなにかの機会にさまざまな方の意見にふれたさいに、あらためてかんがえなおすことがあります。
これはいろんなレベルでかんがえることができるし、かんがえることがすぐに自分のアイデンティティとかかわってくるような気もして、むずかしいなあといつもかんがえているんですが、たとえば俳句と川柳のちがいについてはこんな指摘があります。
俳句……非意味性
川柳……意味性
これは、俳句や川柳をひとはどう受容するかという問題ともかかわってくるとおもうんですが、たとえば、わたしは俳句について語るときにかなりじぶんが〈野暮〉だなあとおもうことが、多々あります。
俳句は、物語や散文脈に通じないところがあるからこその俳句性であって、それを語り出してしまったらまずいのではないかと。ここはいつもわたしが葛藤しているところです。
俳句は、それそのものだけで、すでに〈答え〉であり、それ以上は、たぶん、〈ない〉です(と、おもいます)。
たとえば、蛙が飛び込んだ水の音がしたり、柿を食べて鐘が鳴っても、ほんとうにそれだけだから俳句なのだとおもうし、もしそれ以上を見出すと、俳句性ではなくなってしまうのではないかとかんがえるときもあります(だから語っているじぶんはどうなんだということはいつも書きながらおもっています)。
でも、一方で川柳はどこか語ることが許されているかんじがします。もちろん、川柳もそれだけですでに答えであり、それ以上はないのですが、たとえば、女子会川柳にしても、詩性川柳にしても、どこかそれを起点に語ることのおもしろさが許されているのではないかとおもったりします。〈そこ〉から物語が、はじまる。
一方、俳句は、〈そこ〉を体験したときに、〈そこ〉で物語が、おわる。
これらは最初の図式、俳句と非意味性、川柳と意味性からかんがえてみた図式的なかんがえかたで、また俳句と川柳をめぐる解釈共同体からかんがえてみた問題でもあります。
で、もうひとつ俳句と川柳のちがい=ジャンル性についてかんがえてみたいのが、自己規定の問題です。
わたしは、ジャンルというのは、ひとつ、自己規定がおおきく関わってくるのではないかとおもいます。
俳句と川柳の自己規定。
これは、わたしがみている感想なのですが、俳句における自己規定は、〈これは俳句ではない〉というところから俳句的自己規定がおかれているようにおもいます。
たとえばかんたんな話、無季か有季かだけでもいい。季語がなければ俳句ではない。抒情的だから俳句ではないとか。
つまり、〈外部〉の否定による規定です。
一方で、川柳はおどろくほどそういう〈これは川柳ではない〉といった自己規定がありません。なんでもとりこんで川柳化してしまうのが川柳です(と、おもいます。そもそも五七五だけで、《こう》しなければみたいなルールがない)。
じゃあどのように川柳は川柳を自己規定していくのかといえば、わたしはそれは〈内部〉の否定なのではないかとおもうのです。
たとえば、オタク川柳は川柳ではない。シルバー川柳は川柳ではない。諷刺性のある川柳は川柳ではないんだという〈内部〉の否定による規定。
つまり、補完的に二項対立化し主体化する他者を、俳句は外部(俳句的でないもの)に、川柳は内部(川柳的なもの)にみいだしているのではないか、とおもうんです。
そんなふうに、俳句性や川柳性は記述的に還元されるといいよりはむしろどう自己規定しているかという動態からたちあがっている場合もあるのではないかと。
自己規定がうむジャンル性です。
ジャンル性というのは、最初に述べたようなそれらを受容している解釈共同体と、またそのジャンルに属する共同体のひとびとがどのように自己規定していくかというふたつのサンドイッチから成り立っているようにもおもいます。
ながいながい前置きでしたが、福田さんの句です。
「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」という句は、俳句的だとおもうんです。というよりも、境界俳句的だとおもうんです。
ここで「しあわせ」を手に入れると〈俳句〉ではなくなってしまう。それは〈意味〉を手に入れることになるから。
だから、〈俳句〉が〈俳句〉である限り、この「どうしても要る」の状態で耐え抜くしかない。でも〈俳句〉である限り、どうしても要るけれど、手には入らない。
この「どうしても要る」のだけれど、しかし絶対的に手に入らない状態、これが〈俳句的状態〉なのではないかと。非意味性を〈どうしても要る〉ハードボイルドとして耐え抜くこと。しかし「どうしても」というところから、〈外部性〉はほのめかすこと。
そしてこの「しあわせ」を手に入れ(すぎ)てしまった状態が〈川柳的状態〉なのではないかとおもうのです。
過剰なるしあわせ=意味性、過剰としてのロマンシチズムが〈川柳性〉になってくるのではないかと。
過剰としてのロマンシチズムは限界がありません。だから、〈外部〉はない。〈内部〉で分節していくしかない。だから、〈内部〉に他者をみいだす。
だから、福田さんの句からことばを借りれば、俳句は〈パスワード〉を絶対に手に入れられないし(手に入れてはいけないし)、川柳は逆に〈パスワード〉を無限に手に入れられる(からこそ、パスワードが無限に増殖しパスワードそのものが解体されていくことさえある)。
そんなふうに、〈ちがい〉をかんがえてみることもできるのではないかとおもうのです。
春はすぐそこだけどパスワードが違う 福田若之
【俳句と川柳から近く/遠く離れて】
ときどき俳句と川柳のちがいについてかんがえたりしています。またなにかの機会にさまざまな方の意見にふれたさいに、あらためてかんがえなおすことがあります。
これはいろんなレベルでかんがえることができるし、かんがえることがすぐに自分のアイデンティティとかかわってくるような気もして、むずかしいなあといつもかんがえているんですが、たとえば俳句と川柳のちがいについてはこんな指摘があります。
俳句……非意味性
川柳……意味性
これは、俳句や川柳をひとはどう受容するかという問題ともかかわってくるとおもうんですが、たとえば、わたしは俳句について語るときにかなりじぶんが〈野暮〉だなあとおもうことが、多々あります。
俳句は、物語や散文脈に通じないところがあるからこその俳句性であって、それを語り出してしまったらまずいのではないかと。ここはいつもわたしが葛藤しているところです。
俳句は、それそのものだけで、すでに〈答え〉であり、それ以上は、たぶん、〈ない〉です(と、おもいます)。
たとえば、蛙が飛び込んだ水の音がしたり、柿を食べて鐘が鳴っても、ほんとうにそれだけだから俳句なのだとおもうし、もしそれ以上を見出すと、俳句性ではなくなってしまうのではないかとかんがえるときもあります(だから語っているじぶんはどうなんだということはいつも書きながらおもっています)。
でも、一方で川柳はどこか語ることが許されているかんじがします。もちろん、川柳もそれだけですでに答えであり、それ以上はないのですが、たとえば、女子会川柳にしても、詩性川柳にしても、どこかそれを起点に語ることのおもしろさが許されているのではないかとおもったりします。〈そこ〉から物語が、はじまる。
一方、俳句は、〈そこ〉を体験したときに、〈そこ〉で物語が、おわる。
これらは最初の図式、俳句と非意味性、川柳と意味性からかんがえてみた図式的なかんがえかたで、また俳句と川柳をめぐる解釈共同体からかんがえてみた問題でもあります。
で、もうひとつ俳句と川柳のちがい=ジャンル性についてかんがえてみたいのが、自己規定の問題です。
わたしは、ジャンルというのは、ひとつ、自己規定がおおきく関わってくるのではないかとおもいます。
俳句と川柳の自己規定。
これは、わたしがみている感想なのですが、俳句における自己規定は、〈これは俳句ではない〉というところから俳句的自己規定がおかれているようにおもいます。
たとえばかんたんな話、無季か有季かだけでもいい。季語がなければ俳句ではない。抒情的だから俳句ではないとか。
つまり、〈外部〉の否定による規定です。
一方で、川柳はおどろくほどそういう〈これは川柳ではない〉といった自己規定がありません。なんでもとりこんで川柳化してしまうのが川柳です(と、おもいます。そもそも五七五だけで、《こう》しなければみたいなルールがない)。
じゃあどのように川柳は川柳を自己規定していくのかといえば、わたしはそれは〈内部〉の否定なのではないかとおもうのです。
たとえば、オタク川柳は川柳ではない。シルバー川柳は川柳ではない。諷刺性のある川柳は川柳ではないんだという〈内部〉の否定による規定。
つまり、補完的に二項対立化し主体化する他者を、俳句は外部(俳句的でないもの)に、川柳は内部(川柳的なもの)にみいだしているのではないか、とおもうんです。
そんなふうに、俳句性や川柳性は記述的に還元されるといいよりはむしろどう自己規定しているかという動態からたちあがっている場合もあるのではないかと。
自己規定がうむジャンル性です。
ジャンル性というのは、最初に述べたようなそれらを受容している解釈共同体と、またそのジャンルに属する共同体のひとびとがどのように自己規定していくかというふたつのサンドイッチから成り立っているようにもおもいます。
ながいながい前置きでしたが、福田さんの句です。
「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」という句は、俳句的だとおもうんです。というよりも、境界俳句的だとおもうんです。
ここで「しあわせ」を手に入れると〈俳句〉ではなくなってしまう。それは〈意味〉を手に入れることになるから。
だから、〈俳句〉が〈俳句〉である限り、この「どうしても要る」の状態で耐え抜くしかない。でも〈俳句〉である限り、どうしても要るけれど、手には入らない。
この「どうしても要る」のだけれど、しかし絶対的に手に入らない状態、これが〈俳句的状態〉なのではないかと。非意味性を〈どうしても要る〉ハードボイルドとして耐え抜くこと。しかし「どうしても」というところから、〈外部性〉はほのめかすこと。
そしてこの「しあわせ」を手に入れ(すぎ)てしまった状態が〈川柳的状態〉なのではないかとおもうのです。
過剰なるしあわせ=意味性、過剰としてのロマンシチズムが〈川柳性〉になってくるのではないかと。
過剰としてのロマンシチズムは限界がありません。だから、〈外部〉はない。〈内部〉で分節していくしかない。だから、〈内部〉に他者をみいだす。
だから、福田さんの句からことばを借りれば、俳句は〈パスワード〉を絶対に手に入れられないし(手に入れてはいけないし)、川柳は逆に〈パスワード〉を無限に手に入れられる(からこそ、パスワードが無限に増殖しパスワードそのものが解体されていくことさえある)。
そんなふうに、〈ちがい〉をかんがえてみることもできるのではないかとおもうのです。
春はすぐそこだけどパスワードが違う 福田若之
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