【感想】この歌はおなじところで間違える 月波与生
- 2014/12/01
- 23:50
この歌はおなじところで間違える 月波与生
【差異と反復、しくじりとしてのリトルネロ】
歌をうたっているひとの表情をみてるとよくわかるんですが、歌=謡っていうのは、身体性の無意識が露出してくる行為だとおもうんです。
だから、折口信夫が、歌=謡の〈起源〉をたしか、神へのことば、語りかけだといっていたようにおもうんですが、歌をうたうときの表情がどこか身体の〈狂気〉をはらんでいる、みたこともない表情がでる、というのは、こうした神懸かり状態と関係なくもないのかな、ともおもう。
歌っていうのは、発声のしかたがしぜんと異なってくるからふだんとちがう身体をしなければならない。
けれども、そうした超越的身体が神へのアクセスとつながってくる。そこらへんに歌う身体のアウラがあるのかなと。
朗読もロックもシャウトも叫びも号泣も、ある種そういった叫ぶ身体という神へのアクセスをもちこんでいるのではないかともおもったりします。
で、月波さんのこの句のおもしろさのひとつに、そうした無意識の身体が露呈する歌(う行為の最中)でありながらも、〈越えられない一線〉=「おなじところで間違える」という〈私性〉がでてくる。
そこがおもしろいんじゃないかとおもうんです。
歌っていうのは〈わたし〉を超えて、〈わたし〉がふだんゆかない場所にアクセスする、からだの無意識にゆだねる行為なんだけれども(たとえば歌においては言語も意味もロゴスも解体していっていい。たとえば、工藤吉生さんの「ラララララ ラララララララ 字だけでは 伝わらないが すごい歌です」)、けれども、〈間違える〉という行為の反復が、生産された〈わたし〉を重ねてゆく。
だから、ある意味、ひとは、歌をそのつど〈一回きり〉しか歌えないとおもうんです。
どんな歌でも、ただいちどしか歌えないし、ただいちどしかまちがえられない。
〈おなじ〉は〈おなじ〉ではない。
「この歌」は「この歌」としていつもいちどきりで、そして「おなじところで間違える」ことによって、〈わたし〉はいままで入ったことのない感じたことのない〈わたし〉の私性の領域へとだんだんとはいって、いく。
以前もすこし書いたんですが、月波さんの句の〈私性〉のありようってわたしはとてもおもしろいなとおもっていて、なにかにアクセスした瞬間にそのアクセスによってわきおこる〈私性〉なんです。
わたしが、わたしが、という〈私性〉ではない。境涯や人生でも、ない。ふっと身体の底からくる〈私性〉。
そういう、アクセスとしての〈私性〉をかんじたりすることがあります。いやむしろ〈私性〉は〈わたし〉じゃない領域から、それでも〈わたし〉としてやってきてしまったものにこそ、あるんじゃないかとおもったりも、します。
どこにアクセスすると〈わたし〉が転がりおちてくるねか。
そしてその〈わたし〉がどのように〈あなた〉という対極にそのままアクセスしていくのか。
私性機械としての川柳機械、のようなもの。
引き返すつもりで少し進みます 月波与生
【差異と反復、しくじりとしてのリトルネロ】
歌をうたっているひとの表情をみてるとよくわかるんですが、歌=謡っていうのは、身体性の無意識が露出してくる行為だとおもうんです。
だから、折口信夫が、歌=謡の〈起源〉をたしか、神へのことば、語りかけだといっていたようにおもうんですが、歌をうたうときの表情がどこか身体の〈狂気〉をはらんでいる、みたこともない表情がでる、というのは、こうした神懸かり状態と関係なくもないのかな、ともおもう。
歌っていうのは、発声のしかたがしぜんと異なってくるからふだんとちがう身体をしなければならない。
けれども、そうした超越的身体が神へのアクセスとつながってくる。そこらへんに歌う身体のアウラがあるのかなと。
朗読もロックもシャウトも叫びも号泣も、ある種そういった叫ぶ身体という神へのアクセスをもちこんでいるのではないかともおもったりします。
で、月波さんのこの句のおもしろさのひとつに、そうした無意識の身体が露呈する歌(う行為の最中)でありながらも、〈越えられない一線〉=「おなじところで間違える」という〈私性〉がでてくる。
そこがおもしろいんじゃないかとおもうんです。
歌っていうのは〈わたし〉を超えて、〈わたし〉がふだんゆかない場所にアクセスする、からだの無意識にゆだねる行為なんだけれども(たとえば歌においては言語も意味もロゴスも解体していっていい。たとえば、工藤吉生さんの「ラララララ ラララララララ 字だけでは 伝わらないが すごい歌です」)、けれども、〈間違える〉という行為の反復が、生産された〈わたし〉を重ねてゆく。
だから、ある意味、ひとは、歌をそのつど〈一回きり〉しか歌えないとおもうんです。
どんな歌でも、ただいちどしか歌えないし、ただいちどしかまちがえられない。
〈おなじ〉は〈おなじ〉ではない。
「この歌」は「この歌」としていつもいちどきりで、そして「おなじところで間違える」ことによって、〈わたし〉はいままで入ったことのない感じたことのない〈わたし〉の私性の領域へとだんだんとはいって、いく。
以前もすこし書いたんですが、月波さんの句の〈私性〉のありようってわたしはとてもおもしろいなとおもっていて、なにかにアクセスした瞬間にそのアクセスによってわきおこる〈私性〉なんです。
わたしが、わたしが、という〈私性〉ではない。境涯や人生でも、ない。ふっと身体の底からくる〈私性〉。
そういう、アクセスとしての〈私性〉をかんじたりすることがあります。いやむしろ〈私性〉は〈わたし〉じゃない領域から、それでも〈わたし〉としてやってきてしまったものにこそ、あるんじゃないかとおもったりも、します。
どこにアクセスすると〈わたし〉が転がりおちてくるねか。
そしてその〈わたし〉がどのように〈あなた〉という対極にそのままアクセスしていくのか。
私性機械としての川柳機械、のようなもの。
引き返すつもりで少し進みます 月波与生
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