すべて(のあとがき)がFになる
- 2014/12/02
- 00:14
こないだある方からことばをいただいて返事を書いているときに、〈置き去りとしての身体性〉という問題にたどりついて、このさき、歴史がどう展開しても、環境工学やアーキテクチャがどのくらい変化してもその問題はでてくるのかなあ、とふとおもった。
そのとき、ちょっと思い浮かべていたのが、森博嗣の『すべてがFになる』である。
たしか犀川先生がいっていたことなのだけれど、〈身体〉はもうこのさきいらなくなると。
あとは、データや情報だけがすべて動いていき、わたしたちの身体だけがもういらなくなると。
かなり以前に読んでいるのでうろ覚えだが、たしか四季博士と犀川先生が対話しているときに、そうした身体を捨象した仮想空間で話をしていた気がする。
でも、にもかかわらず、わたしたちは身体は捨てられない。
マリオがなんにん死んでも、わたしたちの身体はえいえんに置き去りにされる。
たとえばシンポジウムでどんなに抽象的な議論や具体的な議論をきいていても、わたしの、このわたしの身体はいつまでもパイプ椅子のうえにあって、さまざまな反応をする。
こばんだり、しゃちほこばったり、ねじれたり、よじれたり、曲がったり、屈折したり、濡れたり、破壊されたり、すくなくなったり、分離したり、組成が変化したり。
この置き去りにされてしまう身体のことが、ずっと気になっている。
コミュニケーションからもことばからも疎外されてありながら、コミュニケーションにもことばにも根付いていく身体が。
身体論は一時期とても隆盛して、なんでも身体として称揚される記号論の時代があり、そのうちに文化研究がはいってきて、政治的身体が問題になっていったわけだけれども、でも、意味のカニバルとしての祝祭の身体でも、言説によって構成されるつくられる身体でもなく、どこまでいっても置き去りにされていく身体の問題は、ずっとつづいていくようにも、おもう(ちなみにわたしはいま横になってあしをゆらゆらしながらこれを書いている、ある意味、〈倒れこむ〉ことと〈正気〉がつながってゆく、そうゆう身体)。
絵屏風の倒れこみたいほど正気 小津夜景
身体は空間の任意の一点から、何とか自分を見ようとする。
身体はそれ自身が空間になったように、《物を置くことのできない暗黒空間》になったように感じる。
身体は似ている。
何かに似ているのではなく、《ただ単に似ている》。
そして身体は空間をつくりだすが、その空間は身体を〈痙攣的に所有する〉のである。
カイヨワ『神話と人間』
「身体」に対してわれわれがもっているある種のロマンティシズム。
日本の言説空間において、「身体」という語は、多くの場合、言葉を用いて仕事をしなければならないわれわれにとっての免罪符として機能しているのではないかと思うのです。
われわれは言葉を用い、言葉について読み、言葉について書いている。
しかし、ちょっと仕事に疲れてくると「身体」と言いだす(笑)。
身体とは言語の外部である、記号から溢れるもの、記号に取り憑く過剰、文化への抵抗である、あるいは、われわれはそもそも身体である──といった言い方ですね。
べつにそれが間違いだと言っているわけではありません。
しかし、「身体」の一語が思考停止装置として働く場合があるということ、「身体」と言うことは、「身体」について思考せずに済ますためのひとつの方法でもあるということ、これも事実だと思います。
ヤンポリスキーにとって身体は記号の外部ではなく、逆に、記号作用を支え、シニフィアンの繋留を可能にし、ひとつの記号の体制をつくりあげる条件なのです。ということはつまり、身体はひとつの記号の体制を別の体制に書き換える条件でもあるのでしょう。
表象を破壊する外部ではなく、表象の条件となる身体の構築を分析する試み。
小説言語を可能にする条件として身体の布置という問題を立ててみたらどうか。
番場俊『隠喩・神話・事実性』
そのとき、ちょっと思い浮かべていたのが、森博嗣の『すべてがFになる』である。
たしか犀川先生がいっていたことなのだけれど、〈身体〉はもうこのさきいらなくなると。
あとは、データや情報だけがすべて動いていき、わたしたちの身体だけがもういらなくなると。
かなり以前に読んでいるのでうろ覚えだが、たしか四季博士と犀川先生が対話しているときに、そうした身体を捨象した仮想空間で話をしていた気がする。
でも、にもかかわらず、わたしたちは身体は捨てられない。
マリオがなんにん死んでも、わたしたちの身体はえいえんに置き去りにされる。
たとえばシンポジウムでどんなに抽象的な議論や具体的な議論をきいていても、わたしの、このわたしの身体はいつまでもパイプ椅子のうえにあって、さまざまな反応をする。
こばんだり、しゃちほこばったり、ねじれたり、よじれたり、曲がったり、屈折したり、濡れたり、破壊されたり、すくなくなったり、分離したり、組成が変化したり。
この置き去りにされてしまう身体のことが、ずっと気になっている。
コミュニケーションからもことばからも疎外されてありながら、コミュニケーションにもことばにも根付いていく身体が。
身体論は一時期とても隆盛して、なんでも身体として称揚される記号論の時代があり、そのうちに文化研究がはいってきて、政治的身体が問題になっていったわけだけれども、でも、意味のカニバルとしての祝祭の身体でも、言説によって構成されるつくられる身体でもなく、どこまでいっても置き去りにされていく身体の問題は、ずっとつづいていくようにも、おもう(ちなみにわたしはいま横になってあしをゆらゆらしながらこれを書いている、ある意味、〈倒れこむ〉ことと〈正気〉がつながってゆく、そうゆう身体)。
絵屏風の倒れこみたいほど正気 小津夜景
身体は空間の任意の一点から、何とか自分を見ようとする。
身体はそれ自身が空間になったように、《物を置くことのできない暗黒空間》になったように感じる。
身体は似ている。
何かに似ているのではなく、《ただ単に似ている》。
そして身体は空間をつくりだすが、その空間は身体を〈痙攣的に所有する〉のである。
カイヨワ『神話と人間』
「身体」に対してわれわれがもっているある種のロマンティシズム。
日本の言説空間において、「身体」という語は、多くの場合、言葉を用いて仕事をしなければならないわれわれにとっての免罪符として機能しているのではないかと思うのです。
われわれは言葉を用い、言葉について読み、言葉について書いている。
しかし、ちょっと仕事に疲れてくると「身体」と言いだす(笑)。
身体とは言語の外部である、記号から溢れるもの、記号に取り憑く過剰、文化への抵抗である、あるいは、われわれはそもそも身体である──といった言い方ですね。
べつにそれが間違いだと言っているわけではありません。
しかし、「身体」の一語が思考停止装置として働く場合があるということ、「身体」と言うことは、「身体」について思考せずに済ますためのひとつの方法でもあるということ、これも事実だと思います。
ヤンポリスキーにとって身体は記号の外部ではなく、逆に、記号作用を支え、シニフィアンの繋留を可能にし、ひとつの記号の体制をつくりあげる条件なのです。ということはつまり、身体はひとつの記号の体制を別の体制に書き換える条件でもあるのでしょう。
表象を破壊する外部ではなく、表象の条件となる身体の構築を分析する試み。
小説言語を可能にする条件として身体の布置という問題を立ててみたらどうか。
番場俊『隠喩・神話・事実性』
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:詩・ことば
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のあとがき