【感想】さかなへんの字にしたしんだ休日の次の日街できみをみかけた 正岡豊
- 2014/05/09
- 17:48
さかなへんの字にしたしんだ休日の次の日街できみをみかけた 正岡豊
【部首になることをゆめみる語り手-きみとのエクリチュール上のすれちがい-】
ずっとかんがえていた短歌です。
正岡さんのこの歌はおそらくいろいろなかたちで解釈が可能だとおもうんですが、語り手が選択した言葉づかいにすこし注目してかんがえてみたいんです。
まず初句・第二句が「さかなへんの字にしたしんだ」とはじまっています。
ここで注目してみたいのは、どんなさかなへんの漢字だったのか、ということよりもむしろ「さかなへん」を「さかなへん」として独立させて語ることができる語り手のことばづかいです。
語り手にとって世界はそのようにみえているということです。
さかなへんというのは、「鯵」や 「鮑」などの漢字の左に位置する部首のことです。部首の魚の右にさまざまな漢字が入ることによって漢字の性質や内実がかわっていきます。しかし、「さかな」であるという一貫した表象は部首によって守られています。右に入る漢字からの関数的なかかわりあいによって「さかな」はマイナーチェンジしていきます。
そのような右に入力されるXによって内実が変わる部首というものを独立させたかたちに語り手は休日に「したしん」でいたことになります。しかもそれが「さかな」であることが重要です。魚類という普遍的カテゴリーはまもられながらも、右になにが置かれるかによって性質・生態を変える変数であること。
こういった語り手の世界観が下の句でひびいてくるのがわたしはこの短歌のおもしろさだとおもうんです。下の句をみてみます。
下の句で語り手は「次の日」と上の句の世界観を接続させるかたちで下の句にもちこみつつ、「街できみをみかけた」と語ります。「会った」でもなく、「話した」でも、「食事した」でもなく、「みかけた」です。あいてが語り手を認知したかどうかはわかりません。しかし語り手は「みかけた」ことによって認知しました。
つまり、語り手は「みかけた」というわたしはあいてを認知しているがあいてはわたしを認知していないというハーフな相互交通の状態にいます。このハーフな相互交通とはまさに部首そのものです。しかし部首とは右におかれる漢字によって変化する変数的存在だったはずです。
ここで語り手は「きみをみかけた」ことによって「さかなへん」のようにおおきく普遍的カテゴリーをたもちつつも、その内実・性質は変わってしまうという〈変化〉を生きたのだということはいえないでしょうか。
つまりこのうたとは、部首の世界観で「きみをみかけた」うたです。だから語り手は変化します。しかし、「きみ」に変化はおとずれない。「きみ」は部首ではないからです。だから「みかけた」です。そこにあいてとはつじあえない、しかしつうじあえないままにわたしが変化せざるをえない〈かなしみ〉があるようにおもいます。
わたしはこの正岡さんの短歌はそういった世界観の相互交通の挫折によるかなしみがひとつの側面としてあらわされた短歌なのではないかとおもうのです。
【部首になることをゆめみる語り手-きみとのエクリチュール上のすれちがい-】
ずっとかんがえていた短歌です。
正岡さんのこの歌はおそらくいろいろなかたちで解釈が可能だとおもうんですが、語り手が選択した言葉づかいにすこし注目してかんがえてみたいんです。
まず初句・第二句が「さかなへんの字にしたしんだ」とはじまっています。
ここで注目してみたいのは、どんなさかなへんの漢字だったのか、ということよりもむしろ「さかなへん」を「さかなへん」として独立させて語ることができる語り手のことばづかいです。
語り手にとって世界はそのようにみえているということです。
さかなへんというのは、「鯵」や 「鮑」などの漢字の左に位置する部首のことです。部首の魚の右にさまざまな漢字が入ることによって漢字の性質や内実がかわっていきます。しかし、「さかな」であるという一貫した表象は部首によって守られています。右に入る漢字からの関数的なかかわりあいによって「さかな」はマイナーチェンジしていきます。
そのような右に入力されるXによって内実が変わる部首というものを独立させたかたちに語り手は休日に「したしん」でいたことになります。しかもそれが「さかな」であることが重要です。魚類という普遍的カテゴリーはまもられながらも、右になにが置かれるかによって性質・生態を変える変数であること。
こういった語り手の世界観が下の句でひびいてくるのがわたしはこの短歌のおもしろさだとおもうんです。下の句をみてみます。
下の句で語り手は「次の日」と上の句の世界観を接続させるかたちで下の句にもちこみつつ、「街できみをみかけた」と語ります。「会った」でもなく、「話した」でも、「食事した」でもなく、「みかけた」です。あいてが語り手を認知したかどうかはわかりません。しかし語り手は「みかけた」ことによって認知しました。
つまり、語り手は「みかけた」というわたしはあいてを認知しているがあいてはわたしを認知していないというハーフな相互交通の状態にいます。このハーフな相互交通とはまさに部首そのものです。しかし部首とは右におかれる漢字によって変化する変数的存在だったはずです。
ここで語り手は「きみをみかけた」ことによって「さかなへん」のようにおおきく普遍的カテゴリーをたもちつつも、その内実・性質は変わってしまうという〈変化〉を生きたのだということはいえないでしょうか。
つまりこのうたとは、部首の世界観で「きみをみかけた」うたです。だから語り手は変化します。しかし、「きみ」に変化はおとずれない。「きみ」は部首ではないからです。だから「みかけた」です。そこにあいてとはつじあえない、しかしつうじあえないままにわたしが変化せざるをえない〈かなしみ〉があるようにおもいます。
わたしはこの正岡さんの短歌はそういった世界観の相互交通の挫折によるかなしみがひとつの側面としてあらわされた短歌なのではないかとおもうのです。
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