【感想】消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ 寺山修司
- 2014/12/03
- 12:00
駄菓子屋でビー玉一つ買いてより眼球譚のはじまりとなる
消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ
王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや
寺山修司『未発表歌集 月蝕書簡』
【フィクションの地平】
寺山修司のフィクション性に、もちろん文体からたちあげているフィクション性もあるとおもうんですが、もうひとつ、〈引用〉=〈脱-埋め込み化〉によるフィクション性があるんではないかとおもうんです。
たとえば上の三首には、バタイユの『眼球譚』や「言語漂流記」というおそらく架空の書物や、「図書館」といったそれ自体が迷宮化しているようなテクストとしての迷宮が歌のなかに〈脱-埋め込み化〉されています。
フィクションとして閉じようのない「眼球譚」や「言語漂流記」や「図書館」を、歌のなかに埋め込むことによる、それ自体が、フィクションとしての指標になっていく。
これはボルヘスもそうだと思うんですが、ボルヘスの短編って論文の文体みたいにリアリズムの、ある意味、超リアリズムの文体で書かれたりする。
でもそこにやはり架空の国や架空のことば、架空の観念、架空の書物、もしくは図書館自体の観念化によって、そのリアリズムがフィクションへと反転してしまう。
そういう文体だけでなく、「名詞」をある地平から歌の地平へともってきて埋め込んでいく過程でそれをフィクションをたちあげる装置として駆動させてしまう。
そういう〈仕組み〉としての地平をつくっていたのが寺山修司の短歌だったのではないかとおもったりするのです。
一夜にて老いし書物の少女追う最後の頁に地平をすかし 寺山修司
消しゴムの孤島に犀を飼わんとす言語漂流記をなつかしめ
王国を閉じたるあとの図書館に鳥落ちてくる羽音ならずや
寺山修司『未発表歌集 月蝕書簡』
【フィクションの地平】
寺山修司のフィクション性に、もちろん文体からたちあげているフィクション性もあるとおもうんですが、もうひとつ、〈引用〉=〈脱-埋め込み化〉によるフィクション性があるんではないかとおもうんです。
たとえば上の三首には、バタイユの『眼球譚』や「言語漂流記」というおそらく架空の書物や、「図書館」といったそれ自体が迷宮化しているようなテクストとしての迷宮が歌のなかに〈脱-埋め込み化〉されています。
フィクションとして閉じようのない「眼球譚」や「言語漂流記」や「図書館」を、歌のなかに埋め込むことによる、それ自体が、フィクションとしての指標になっていく。
これはボルヘスもそうだと思うんですが、ボルヘスの短編って論文の文体みたいにリアリズムの、ある意味、超リアリズムの文体で書かれたりする。
でもそこにやはり架空の国や架空のことば、架空の観念、架空の書物、もしくは図書館自体の観念化によって、そのリアリズムがフィクションへと反転してしまう。
そういう文体だけでなく、「名詞」をある地平から歌の地平へともってきて埋め込んでいく過程でそれをフィクションをたちあげる装置として駆動させてしまう。
そういう〈仕組み〉としての地平をつくっていたのが寺山修司の短歌だったのではないかとおもったりするのです。
一夜にて老いし書物の少女追う最後の頁に地平をすかし 寺山修司
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