【感想】かさかさと揺れているのはわたくしの 草地豊子
- 2014/12/03
- 23:11
かさかさと揺れているのはわたくしの 草地豊子
打線という言葉を知ってるか? 9人のバカが一人ずつ、なにも考えずにバッターボックスに入ってたんじゃ、線にはならねぇんだよ。
あだち充『タッチ』の柏葉監督の言葉
【世の中それほど感動的にはできちゃいないと柏葉監督は言った】
川柳における〈私性〉についてときどきかんがえているのですが、川柳は規則やコードが俳句にくらべて〈ゆるい〉とおもうんですね。
たとえば俳句は季語をいれるという基本則があってそこからめいめいのコードをかんがえていくことができる。
川柳にももちろんこういうことばづかいは〈だめ〉というのはあるともおもうんですが、でもその〈だめ〉を問うのも川柳という枠組みでできるような気もするし、むしろコード自体を川柳としての575で問えるような気もする。こういうのは川柳ではないのか、というぎりぎりのラインを問えることに川柳のタフネスもあるようにおもうのです。
〈これは川柳ではない〉というソフトウェアにおける違反は、基本的に575というハードウェアの違反さえなければ、川柳には〈ない〉ような気がするのです。むしろ、〈問い〉となる。
そうなってくると、ある意味、ことばの無秩序状態が川柳で起こる場合も、ある。
でも、そのときに、じぶんなりにラインとしての打線をくんでいくのが〈私性〉になってくるのかなとおもうんです。
境涯とか人生を575にあてこんでいくというよりは、むしろ句の連なりが、ある〈打線〉として浮かび上がってくる。
それが〈私性〉になってくるのかな、と。
で、その〈私性〉は、たぶん、川柳においてしかできない。
小説でも、映画でも、マンガでも、短歌でも、俳句でもなくて、川柳だけができる〈私性〉があるようにも、おもう。
川柳を特権化しているというよりは、そういう川柳という形式がつねに川柳性を問える形式であるというその形式そのものに川柳独特の〈私性〉がきざしてくるようにもおもうのです。
上に掲げた句は、『川柳カード7号』の草地豊子さんの連作「何」からの一句なんですが、この連作「何」では、
憲法をあんたの趣味で変えるなよ 草地豊子
からはじまって、
かぼちゃ真ふたつ殺意でなくて 何 〃
で終わるんですが、そういう「あんたの趣味で変えるなよ」としての〈変えられる何〉が「殺意でなくて 何」としての〈変えられない何〉への移行として連作のプロセスがある。
その「何」がなしくずしに決定されてしまう様相をとらえた〈打線〉が、あえていうならこの連作の〈私性〉として浮かび上がってくるのかなとおもうんです。
そういう句としてのテクストから浮かび上がってくる〈私性〉をかんがえることはできないか。
いわば、川柳が川柳をとおしてたちあげる〈私性〉として。
「何」はどこまでいっても「何」でしかないのだけれど、しかし「何」であるがゆえになしくずしにとたんに「何」が「何」化できないものとして決定づけられてしまうときが、ある。
そのとき、「何(?)」とわたしたちはそれでも〈発話〉しなおすことも、できる。〈打線〉として。〈私性〉として。人生ではなく。わたしでもなく。何、としての、私性。わたくしの、何。だからもういちど、
かさかさと揺れているのはわたくしの 草地豊子
打線という言葉を知ってるか? 9人のバカが一人ずつ、なにも考えずにバッターボックスに入ってたんじゃ、線にはならねぇんだよ。
あだち充『タッチ』の柏葉監督の言葉
【世の中それほど感動的にはできちゃいないと柏葉監督は言った】
川柳における〈私性〉についてときどきかんがえているのですが、川柳は規則やコードが俳句にくらべて〈ゆるい〉とおもうんですね。
たとえば俳句は季語をいれるという基本則があってそこからめいめいのコードをかんがえていくことができる。
川柳にももちろんこういうことばづかいは〈だめ〉というのはあるともおもうんですが、でもその〈だめ〉を問うのも川柳という枠組みでできるような気もするし、むしろコード自体を川柳としての575で問えるような気もする。こういうのは川柳ではないのか、というぎりぎりのラインを問えることに川柳のタフネスもあるようにおもうのです。
〈これは川柳ではない〉というソフトウェアにおける違反は、基本的に575というハードウェアの違反さえなければ、川柳には〈ない〉ような気がするのです。むしろ、〈問い〉となる。
そうなってくると、ある意味、ことばの無秩序状態が川柳で起こる場合も、ある。
でも、そのときに、じぶんなりにラインとしての打線をくんでいくのが〈私性〉になってくるのかなとおもうんです。
境涯とか人生を575にあてこんでいくというよりは、むしろ句の連なりが、ある〈打線〉として浮かび上がってくる。
それが〈私性〉になってくるのかな、と。
で、その〈私性〉は、たぶん、川柳においてしかできない。
小説でも、映画でも、マンガでも、短歌でも、俳句でもなくて、川柳だけができる〈私性〉があるようにも、おもう。
川柳を特権化しているというよりは、そういう川柳という形式がつねに川柳性を問える形式であるというその形式そのものに川柳独特の〈私性〉がきざしてくるようにもおもうのです。
上に掲げた句は、『川柳カード7号』の草地豊子さんの連作「何」からの一句なんですが、この連作「何」では、
憲法をあんたの趣味で変えるなよ 草地豊子
からはじまって、
かぼちゃ真ふたつ殺意でなくて 何 〃
で終わるんですが、そういう「あんたの趣味で変えるなよ」としての〈変えられる何〉が「殺意でなくて 何」としての〈変えられない何〉への移行として連作のプロセスがある。
その「何」がなしくずしに決定されてしまう様相をとらえた〈打線〉が、あえていうならこの連作の〈私性〉として浮かび上がってくるのかなとおもうんです。
そういう句としてのテクストから浮かび上がってくる〈私性〉をかんがえることはできないか。
いわば、川柳が川柳をとおしてたちあげる〈私性〉として。
「何」はどこまでいっても「何」でしかないのだけれど、しかし「何」であるがゆえになしくずしにとたんに「何」が「何」化できないものとして決定づけられてしまうときが、ある。
そのとき、「何(?)」とわたしたちはそれでも〈発話〉しなおすことも、できる。〈打線〉として。〈私性〉として。人生ではなく。わたしでもなく。何、としての、私性。わたくしの、何。だからもういちど、
かさかさと揺れているのはわたくしの 草地豊子
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