【感想】たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる 笹井宏之
- 2014/12/07
- 13:25
たましいのやどらなかったことばにもきちんとおとむらいをだしてやる 笹井宏之
【喪の日記】
さいきんこの笹井さんの歌をずっと思い出していました。
この歌を思い出しながらかんがえていたのは、定型というのはひとつの喪の儀式なのではないかということです。
定型、ってとてもふしぎです。
それまではじぶんのなかに組織されなかった、使い得なかった語法や語感が定型のなかにあらわれてくる。
でも、そうやって定型としてそれまでみいだしえなkったものをみいだしたとたんに、それらの語法や語感は基本的に使い得ないものになってしまう。
それは定型をとおした瞬間、〈終わっ〉てしまう。もっといえば、〈死ん〉でしまう。
よしそれらを反復してまた定型詩をうたってみよう、ということにはならない。
その意味で、定型と喪の関係は強いのではないかとおもうのです。
それはなんどもなんども口にだされ、くちびるに記憶され、うたわれ、よまれるかもしれない。
でも定型をとおしたそれらのことばがそうした反復性をゆるされるのは、定型という喪の儀式を遂行したからなのではないかとおもうのです。
その意味で、うえの笹井さんの歌は、ひとつの定型論=短歌論になっているのではないかとおもいます。
「たましいのやどらなかったことば」を定型をとおすことによってたましいをこめ、と同時に、喪の儀式として遂行し、一回性の喪をあたえてやる=おとむらいをすることで、それらが反復性の死後の生をいきられるようにすること。
定型にはそういった、〈喪〉がふかく関係しているようにおもわれるのです。
だからこそ、定型のなかで〈死〉をよむことは、ふだんの表現レベルとはちがった位相が与えられることになるのではないかと。
ひいらぎをあなたの部屋へ置きました とむらうことになれていなくて 笹井宏之
【喪の日記】
さいきんこの笹井さんの歌をずっと思い出していました。
この歌を思い出しながらかんがえていたのは、定型というのはひとつの喪の儀式なのではないかということです。
定型、ってとてもふしぎです。
それまではじぶんのなかに組織されなかった、使い得なかった語法や語感が定型のなかにあらわれてくる。
でも、そうやって定型としてそれまでみいだしえなkったものをみいだしたとたんに、それらの語法や語感は基本的に使い得ないものになってしまう。
それは定型をとおした瞬間、〈終わっ〉てしまう。もっといえば、〈死ん〉でしまう。
よしそれらを反復してまた定型詩をうたってみよう、ということにはならない。
その意味で、定型と喪の関係は強いのではないかとおもうのです。
それはなんどもなんども口にだされ、くちびるに記憶され、うたわれ、よまれるかもしれない。
でも定型をとおしたそれらのことばがそうした反復性をゆるされるのは、定型という喪の儀式を遂行したからなのではないかとおもうのです。
その意味で、うえの笹井さんの歌は、ひとつの定型論=短歌論になっているのではないかとおもいます。
「たましいのやどらなかったことば」を定型をとおすことによってたましいをこめ、と同時に、喪の儀式として遂行し、一回性の喪をあたえてやる=おとむらいをすることで、それらが反復性の死後の生をいきられるようにすること。
定型にはそういった、〈喪〉がふかく関係しているようにおもわれるのです。
だからこそ、定型のなかで〈死〉をよむことは、ふだんの表現レベルとはちがった位相が与えられることになるのではないかと。
ひいらぎをあなたの部屋へ置きました とむらうことになれていなくて 笹井宏之
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想