【川柳】リンス・イン・魂(洗い流せない)
- 2014/05/10
- 21:25
リンス・イン・魂(洗い流せない) 柳本々々
『おかじょうき』2014年4月号
【自(分で)解(いてみる)-自意識としての括弧-】
この「リンス・イン」の句に対して、むさしさんから次のようなコメントをいただいた。
「「リンス・イン・魂」だとリンスと魂が一緒に入っている。これじゃ頭に付けても「(洗い流せない)」。句の後半が括弧の中に入っていてもおもしろいですね。(私も使ったことがあります)この句って読み上げるとき「りんすいんたましいカッコあらいながせないカッコ」って読むんだろうか。それとも括弧は読まないのだろうか。読む人が勝手にやればいいんだけど…。(洗い流せない)と説明しないで何かに変えてもいいなあ」
むさしさんからいただいたことばを読み、川柳における括弧の問題についてじぶんなりにその後いろいろかんがえてみた。
わたしはこの括弧は無意識かつそれなりに意識的に、つまり意識と無意識のあわいのなかで使いつつ句をつくったのだが、読み手の側にまわったときに定型詩における記号に対してどのような位置をとるのかというのはけっこう大事な問題なのではないかとおもう。
たとえば、括弧ではないのだが、同じような言語を分節する記号である「、」(読点)について、このブログではひとつの読みの可能性として、普川素床さんの川柳における「、」と定型について、 加藤治郎さんの短歌における「、」と語り手の意識についてをとりあげてみた。それはあくまでひとつの読みの可能性であり、「、」をどうとるかは読み手次第であるのだが、しかし問題はその「、」ひとつで読みの位相が変化しうる場合があるのではないかということである。そしてこの「、」ひとつに対してどのように読み手が位置をとるかで短歌や川柳の読みがどんなふうにたちあがってくるのかもわかれてくる。
括弧や句読点は語り手の自意識としてもたちあらわれてくるのだが、それと同時に読み手の自意識も照らし出す鏡としてもあらわれてくる。そのとき、読み手はそれら記号に対してどのように解釈とすりあわせていくのかもひとつの大事な読み解きになってくるのではないだろうか。
最後になりますが、むさしさん、コメントをくださりましてありがとうございました。
『おかじょうき』2014年4月号
【自(分で)解(いてみる)-自意識としての括弧-】
この「リンス・イン」の句に対して、むさしさんから次のようなコメントをいただいた。
「「リンス・イン・魂」だとリンスと魂が一緒に入っている。これじゃ頭に付けても「(洗い流せない)」。句の後半が括弧の中に入っていてもおもしろいですね。(私も使ったことがあります)この句って読み上げるとき「りんすいんたましいカッコあらいながせないカッコ」って読むんだろうか。それとも括弧は読まないのだろうか。読む人が勝手にやればいいんだけど…。(洗い流せない)と説明しないで何かに変えてもいいなあ」
むさしさんからいただいたことばを読み、川柳における括弧の問題についてじぶんなりにその後いろいろかんがえてみた。
わたしはこの括弧は無意識かつそれなりに意識的に、つまり意識と無意識のあわいのなかで使いつつ句をつくったのだが、読み手の側にまわったときに定型詩における記号に対してどのような位置をとるのかというのはけっこう大事な問題なのではないかとおもう。
たとえば、括弧ではないのだが、同じような言語を分節する記号である「、」(読点)について、このブログではひとつの読みの可能性として、普川素床さんの川柳における「、」と定型について、 加藤治郎さんの短歌における「、」と語り手の意識についてをとりあげてみた。それはあくまでひとつの読みの可能性であり、「、」をどうとるかは読み手次第であるのだが、しかし問題はその「、」ひとつで読みの位相が変化しうる場合があるのではないかということである。そしてこの「、」ひとつに対してどのように読み手が位置をとるかで短歌や川柳の読みがどんなふうにたちあがってくるのかもわかれてくる。
括弧や句読点は語り手の自意識としてもたちあらわれてくるのだが、それと同時に読み手の自意識も照らし出す鏡としてもあらわれてくる。そのとき、読み手はそれら記号に対してどのように解釈とすりあわせていくのかもひとつの大事な読み解きになってくるのではないだろうか。
最後になりますが、むさしさん、コメントをくださりましてありがとうございました。
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