【感想】葬儀屋の隣にマザーグースの樹 奈良一艘
- 2014/12/09
- 12:00
葬儀屋の隣にマザーグースの樹 奈良一艘
【主題としての〈隣〉】
『おかじょうき』2014年12月号の句会の席題「隣」からの一艘さんの一句です。
この〈隣〉っていう主題はわりと川柳でもモティーフのひとつとして大事なんじゃないかなとおもったりしています。
以前もおもったんですが、定型は隣り合うことで意味が生まれてくる。
575しかなく、575もあるのが定型ですが、必然的にその575という分節的なスペースで隣り合うことになります。
だからなにも意味をもたないものを置いても隣りあうことで意味がうまれてくるし、あらかじめ隣りあって流通しているものをおくと逆に意味が消えていったりもする。
たとえば標語や決まり文句、流通しすぎた観念を定型においてしまうと意味がのっぺりしてくるのは、あらかじめ隣り合ってしまっていることにより、このはじめて〈隣り合う〉効果が消えてしまうからだともおもいます。
だからといって、離れすぎているものを隣りあわせると、わたしたちの身体が追いついていかない。これはむずかしい問題じゃないかなとおもっています。
定型はなんでもおしこめれば詩として昇華するようにおもいながらも、でもただおしこめるだけでは、わたしたちの身体がそれに追いついていかない。
だけど、身体があらかじめ標語的に先取りされていては定型の意味がない。
そこらへんの微妙な案配に定型のスタンスがあるのではないかとおもったりもします。
一艘さんの掲句なんですが、「マザーグース」っていうのは、アガサ・クリスティが探偵エルキュール・ポアロのシリーズやミス・マープルのシリーズで「マザーグース」になぞらえた殺人事件を展開しています。それは横溝正史が金田一耕助シリーズで手鞠歌になぞらえて殺人が展開しているとも通底しているので、どこかでわたしたちは「葬儀屋」と「マザーグース」の連絡を無意識には知っています。
でもここでポイントなのは、「樹」だとおもいます。
「葬儀屋の隣にマザーグースの樹」が生えている。
それはマザーグースの歌にでてくる「樹」かもしれないし、マザーグース的な不条理で不可思議で言語的な「樹」かもしれない。
でもそれは「葬儀屋」の〈隣〉にあった。
だから、マザーグース的領域を抜けだし、「葬儀屋」と対比されるかたちで〈死〉に対する〈生〉のかたちで「樹」がでてくるかもしれない。
わたしたちはどこかでなんらかの〈隣〉としての関係性を意識にはのぼらせないまでも身体的には理解している。
そしてそれがはじめて言語化されたときに、その身体がおいつく速度でなら意味生成を行えることができる。
それが〈隣〉なのではないかとおもうのです。
葬儀屋とマザーグースは無意識に知っている。
でもそこにはじめて身体がおいつくための準拠点としての新しい風景としての〈樹〉が展開される。
そこに、意味の身体からの生成があるのかな、とおもうのです。
たぶん、定型にとっていつでも〈隣〉は主題をなしているのではないか。
月蝕の隣で飯を炊いている 奈良一艘
【主題としての〈隣〉】
『おかじょうき』2014年12月号の句会の席題「隣」からの一艘さんの一句です。
この〈隣〉っていう主題はわりと川柳でもモティーフのひとつとして大事なんじゃないかなとおもったりしています。
以前もおもったんですが、定型は隣り合うことで意味が生まれてくる。
575しかなく、575もあるのが定型ですが、必然的にその575という分節的なスペースで隣り合うことになります。
だからなにも意味をもたないものを置いても隣りあうことで意味がうまれてくるし、あらかじめ隣りあって流通しているものをおくと逆に意味が消えていったりもする。
たとえば標語や決まり文句、流通しすぎた観念を定型においてしまうと意味がのっぺりしてくるのは、あらかじめ隣り合ってしまっていることにより、このはじめて〈隣り合う〉効果が消えてしまうからだともおもいます。
だからといって、離れすぎているものを隣りあわせると、わたしたちの身体が追いついていかない。これはむずかしい問題じゃないかなとおもっています。
定型はなんでもおしこめれば詩として昇華するようにおもいながらも、でもただおしこめるだけでは、わたしたちの身体がそれに追いついていかない。
だけど、身体があらかじめ標語的に先取りされていては定型の意味がない。
そこらへんの微妙な案配に定型のスタンスがあるのではないかとおもったりもします。
一艘さんの掲句なんですが、「マザーグース」っていうのは、アガサ・クリスティが探偵エルキュール・ポアロのシリーズやミス・マープルのシリーズで「マザーグース」になぞらえた殺人事件を展開しています。それは横溝正史が金田一耕助シリーズで手鞠歌になぞらえて殺人が展開しているとも通底しているので、どこかでわたしたちは「葬儀屋」と「マザーグース」の連絡を無意識には知っています。
でもここでポイントなのは、「樹」だとおもいます。
「葬儀屋の隣にマザーグースの樹」が生えている。
それはマザーグースの歌にでてくる「樹」かもしれないし、マザーグース的な不条理で不可思議で言語的な「樹」かもしれない。
でもそれは「葬儀屋」の〈隣〉にあった。
だから、マザーグース的領域を抜けだし、「葬儀屋」と対比されるかたちで〈死〉に対する〈生〉のかたちで「樹」がでてくるかもしれない。
わたしたちはどこかでなんらかの〈隣〉としての関係性を意識にはのぼらせないまでも身体的には理解している。
そしてそれがはじめて言語化されたときに、その身体がおいつく速度でなら意味生成を行えることができる。
それが〈隣〉なのではないかとおもうのです。
葬儀屋とマザーグースは無意識に知っている。
でもそこにはじめて身体がおいつくための準拠点としての新しい風景としての〈樹〉が展開される。
そこに、意味の身体からの生成があるのかな、とおもうのです。
たぶん、定型にとっていつでも〈隣〉は主題をなしているのではないか。
月蝕の隣で飯を炊いている 奈良一艘
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想