【感想】正体のなきホルモンと春の宵 佐々木貴子
- 2014/12/10
- 00:01
正体のなきホルモンと春の宵 佐々木貴子
【リュミエール兄弟の待つ俳句】
ときどき、定型詩の記憶喚起力ってなんだろう、とおもうことがあります。
定型は、記憶させる装置というのはよくいわれることで、ほんとうなんだろうかそんなの、とおもったりもするんですが、これは実はけっこうほんとうです。たぶん。
たとえば、よく非常口の緑のひとをみるたびになかはられいこさんの「非常口の緑のひとと森にゆく」(いま思い出せるかたちでいったので正確な引用ではないかもしれません。正確な引用はこのブログでなかはらさんのこの句を感想文として以前に書いてみたことがありますのでもしよければそちらで)を思い出しているんですが、そんなふうに定型詩は記憶をキャッチしていくことがある。というよりも、記憶がわたしをキャッチしてゆくことがある。
なにかのイメージがわたしの記憶として形成される前に、定型詩がその間隙に入り、かつての定型詩の記憶としてわたしのえりくびをつかまえる。
これはたぶん定型が〈覚えやすい〉ということの他に、そもそもの出来事のコマ送り的性質とも関係が深いようにもおもいます。
佐々木貴子さんの句集『ユリウス』で中村和弘さんが貴子さんの句を例に解説されていましたが、俳句には〈コマ送り性〉があって、静止はしているのだけれども、でも、〈動く〉。〈動きすぎてはいけない〉し、どこかやなにかに〈接続過剰〉をしてもいけないのだけれども、だけれども、それは〈とまりながら〉も、〈動く〉。
その、停滞、しつつも、動く、コマ送りが、記憶にいちばん適したかたちなのではないかとおもうのです。
停滞によって記憶に焼きつけながら、しかし、動きによって、出来事として全的に把握してゆく。
たとえば、映画で、悲劇的なシーンがよくスローモーションになりますが、ゆっくり撃たれたりして、ゆっくり倒れたりしていきますが、それも、その物語のいちばん記憶しなければならない瞬間だからではないかとも、おもうんです。
だから、貴子さんの句の掲句のように、「正体のなき」という〈動き〉がありながらも「ホルモン」で〈固定〉化される。そしてまた「春の」で〈動き〉、「宵」で〈固定〉される。
ただここでいちばん停滞しているのは、「ホルモン」で、この「ホルモン」的コマ送りによって、わたしはホルモンをみるたびに貴子さんの「ホルモン」からつかまえられるとも、おもう。
これは俳句に限ったことではなくて、あんがい、川柳や短歌にも、いや、あんがいでもなく、いえることなのではないかとも、おもうのです。
もっといえば、短歌が575でイメージをあらわし、77で私性をあらわすならば、575のイメージだけで短歌は読み手に記憶させる。そしてその77をあれはなんだったかという問いとして、私性として、記憶させないかたちで、しかし詠み手にちかづさせるために、〈想起〉というかたちをとらせる。575(記憶)+77(想起)。そんな構造すらあるのではないかと、おもったりもするのです。
だからひょっとすると、短歌や俳句や川柳などの定型詩は、コマ送りとしての運動態をモノが動くことの〈驚き〉としてとらえたはじめて汽車の(『列車の到着』)、水流の映画(『水をかけられた撒水夫』)を撮った1895年のリュミエール兄弟にちかいのではないかとすら、おもったりもしたのです。
雪の宙コマ送りなる鳥の翼 佐々木貴子
【リュミエール兄弟の待つ俳句】
ときどき、定型詩の記憶喚起力ってなんだろう、とおもうことがあります。
定型は、記憶させる装置というのはよくいわれることで、ほんとうなんだろうかそんなの、とおもったりもするんですが、これは実はけっこうほんとうです。たぶん。
たとえば、よく非常口の緑のひとをみるたびになかはられいこさんの「非常口の緑のひとと森にゆく」(いま思い出せるかたちでいったので正確な引用ではないかもしれません。正確な引用はこのブログでなかはらさんのこの句を感想文として以前に書いてみたことがありますのでもしよければそちらで)を思い出しているんですが、そんなふうに定型詩は記憶をキャッチしていくことがある。というよりも、記憶がわたしをキャッチしてゆくことがある。
なにかのイメージがわたしの記憶として形成される前に、定型詩がその間隙に入り、かつての定型詩の記憶としてわたしのえりくびをつかまえる。
これはたぶん定型が〈覚えやすい〉ということの他に、そもそもの出来事のコマ送り的性質とも関係が深いようにもおもいます。
佐々木貴子さんの句集『ユリウス』で中村和弘さんが貴子さんの句を例に解説されていましたが、俳句には〈コマ送り性〉があって、静止はしているのだけれども、でも、〈動く〉。〈動きすぎてはいけない〉し、どこかやなにかに〈接続過剰〉をしてもいけないのだけれども、だけれども、それは〈とまりながら〉も、〈動く〉。
その、停滞、しつつも、動く、コマ送りが、記憶にいちばん適したかたちなのではないかとおもうのです。
停滞によって記憶に焼きつけながら、しかし、動きによって、出来事として全的に把握してゆく。
たとえば、映画で、悲劇的なシーンがよくスローモーションになりますが、ゆっくり撃たれたりして、ゆっくり倒れたりしていきますが、それも、その物語のいちばん記憶しなければならない瞬間だからではないかとも、おもうんです。
だから、貴子さんの句の掲句のように、「正体のなき」という〈動き〉がありながらも「ホルモン」で〈固定〉化される。そしてまた「春の」で〈動き〉、「宵」で〈固定〉される。
ただここでいちばん停滞しているのは、「ホルモン」で、この「ホルモン」的コマ送りによって、わたしはホルモンをみるたびに貴子さんの「ホルモン」からつかまえられるとも、おもう。
これは俳句に限ったことではなくて、あんがい、川柳や短歌にも、いや、あんがいでもなく、いえることなのではないかとも、おもうのです。
もっといえば、短歌が575でイメージをあらわし、77で私性をあらわすならば、575のイメージだけで短歌は読み手に記憶させる。そしてその77をあれはなんだったかという問いとして、私性として、記憶させないかたちで、しかし詠み手にちかづさせるために、〈想起〉というかたちをとらせる。575(記憶)+77(想起)。そんな構造すらあるのではないかと、おもったりもするのです。
だからひょっとすると、短歌や俳句や川柳などの定型詩は、コマ送りとしての運動態をモノが動くことの〈驚き〉としてとらえたはじめて汽車の(『列車の到着』)、水流の映画(『水をかけられた撒水夫』)を撮った1895年のリュミエール兄弟にちかいのではないかとすら、おもったりもしたのです。
雪の宙コマ送りなる鳥の翼 佐々木貴子
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