【感想】船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた 斉藤斎藤
- 2014/05/11
- 19:43
船のなかでは手紙を書いて星に降りたら歩くしかないように歩いた 斉藤斎藤
【宇宙船と正岡子規-語るしかないように語った-】
2014年5月11日放送のNHK短歌の「初心者になるための短歌入門」で斉藤斎藤さんが小沢健二さんの歌詞と佐藤佐太郎さんの短歌をくらべて話をされていたんですが(下図参照)、わたしがじぶんで理解しえた範囲でことばにしてみるなら次のようなことだったのではないかとおもうんです。
ことばがつむがれていく過程において視点がどのように移動し、その行き着いた視座から語り手にどのような心象風景が外部からおとずれるか。
そういう話だったのではないかとじぶんなりに理解してみたんですが、このふたつのうたをみてみるとわかるのは、どちらも語り手が「車」「森」という限定されたパースペクティブにいたということなんではないかとおもうんです。だから、斉藤斎藤さんも解説として「こころの動きが飛び込んでくる」という言い方をされたのではないかとおもうんです。語り手はある枠組みのなかにいるために、もしくは枠組みをもうけて語っているためにむこうがわからこころのうごきが飛び込んでくる。
これは要約してみると、限定されたパースペクティブのなかで語り手がはじめて成立させうる行為というものがあるのではないか、ということなんではないかとおもうんです。
で、そういった限定されたパースペクティブのなかからみる・語るといった視座に対してとても敏感だったのが斉藤斎藤さん自身なのではないかともおもうんです。
たとえば、斉藤斎藤さんに『渡辺のわたし』という歌集があるんですが、この歌集タイトルもかんがえてみると、「(渡辺の)わたし」というように限定されたパースペクティブのなかでの〈わたし〉が象徴化されたひとつの主題にもなっているわけです。
ひとはどこにでもいけるんだ・なんにでもなれるんだ・すべてを吸収し、すべてを語りつくすんだ、というへーゲルの弁証法的な視座の肥大化ではなく、あえて限定されたパースペクティブを設け、そこからじぶんが誰として・どうものごとをみすえ語っていくのかということが主題化されているようにおもうんです。
うえにあげた斉藤さんの歌も、「船(宇宙船)」「宇宙」という限定されたパースペクティブが設けられるなかで、「手紙を書」く、「歩くしかないように歩いた」といったどのような行為が行えるか、またそういった限定状況のなかでの行為にふだんの行為とはどういった差異化された意味がうまれてくるのか、といったことが問われているようにおもうんです。
どこにいけるか、どういったものをどれだけしることが・みることができるかではなく、どういった限定のなかではじめてしる・みる・語る行為を成立させることができるのか、どのような限定から視座が獲得できるのかといったことが、いまわたしたちがうたをうたう・語るということについての語り手の視座のもんだいとしてとらえられているようにおもいます。
それはたとえば〈写生〉といったみて・語る技法をとらえなおすこころみでもあるとおもうんです。正岡子規が〈病床六尺〉といった限定されたパースペクティブから〈みるわたし〉をどのように成立させ、その限定された語り手のわたしが〈写生〉というふだんはなにも感じないはずのものを率直にみて語るだけでドラマチックしてしまう、そういったみることの実践と技法をいま、ここの地点からどうとらえなおすかといった問題系ともからんでいるようにおもうのです。
【宇宙船と正岡子規-語るしかないように語った-】
2014年5月11日放送のNHK短歌の「初心者になるための短歌入門」で斉藤斎藤さんが小沢健二さんの歌詞と佐藤佐太郎さんの短歌をくらべて話をされていたんですが(下図参照)、わたしがじぶんで理解しえた範囲でことばにしてみるなら次のようなことだったのではないかとおもうんです。
ことばがつむがれていく過程において視点がどのように移動し、その行き着いた視座から語り手にどのような心象風景が外部からおとずれるか。
そういう話だったのではないかとじぶんなりに理解してみたんですが、このふたつのうたをみてみるとわかるのは、どちらも語り手が「車」「森」という限定されたパースペクティブにいたということなんではないかとおもうんです。だから、斉藤斎藤さんも解説として「こころの動きが飛び込んでくる」という言い方をされたのではないかとおもうんです。語り手はある枠組みのなかにいるために、もしくは枠組みをもうけて語っているためにむこうがわからこころのうごきが飛び込んでくる。
これは要約してみると、限定されたパースペクティブのなかで語り手がはじめて成立させうる行為というものがあるのではないか、ということなんではないかとおもうんです。
で、そういった限定されたパースペクティブのなかからみる・語るといった視座に対してとても敏感だったのが斉藤斎藤さん自身なのではないかともおもうんです。
たとえば、斉藤斎藤さんに『渡辺のわたし』という歌集があるんですが、この歌集タイトルもかんがえてみると、「(渡辺の)わたし」というように限定されたパースペクティブのなかでの〈わたし〉が象徴化されたひとつの主題にもなっているわけです。
ひとはどこにでもいけるんだ・なんにでもなれるんだ・すべてを吸収し、すべてを語りつくすんだ、というへーゲルの弁証法的な視座の肥大化ではなく、あえて限定されたパースペクティブを設け、そこからじぶんが誰として・どうものごとをみすえ語っていくのかということが主題化されているようにおもうんです。
うえにあげた斉藤さんの歌も、「船(宇宙船)」「宇宙」という限定されたパースペクティブが設けられるなかで、「手紙を書」く、「歩くしかないように歩いた」といったどのような行為が行えるか、またそういった限定状況のなかでの行為にふだんの行為とはどういった差異化された意味がうまれてくるのか、といったことが問われているようにおもうんです。
どこにいけるか、どういったものをどれだけしることが・みることができるかではなく、どういった限定のなかではじめてしる・みる・語る行為を成立させることができるのか、どのような限定から視座が獲得できるのかといったことが、いまわたしたちがうたをうたう・語るということについての語り手の視座のもんだいとしてとらえられているようにおもいます。
それはたとえば〈写生〉といったみて・語る技法をとらえなおすこころみでもあるとおもうんです。正岡子規が〈病床六尺〉といった限定されたパースペクティブから〈みるわたし〉をどのように成立させ、その限定された語り手のわたしが〈写生〉というふだんはなにも感じないはずのものを率直にみて語るだけでドラマチックしてしまう、そういったみることの実践と技法をいま、ここの地点からどうとらえなおすかといった問題系ともからんでいるようにおもうのです。
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