【感想】給食のあとで首輪を見たあとで 湊圭史
- 2014/12/11
- 12:00
給食のあとで首輪を見たあとで 湊圭史
【川柳を詠むひと=殴るひと】
『川柳カード7号』の湊圭史さんの「給食のあとで」からの一句です。
湊さんの、きかんしゃトーマスを殴りつけたり、ディズニーのバンビをひきずったりしている句を読んだときもそうおもったんですが、湊さんの句には、どこか、〈子ども文化〉が暴力的に発現してしまう瞬間をとらえた句が多いのではないかとおもいます。
ただいそいでつけくわえていうと、〈こども文化〉という規定はそもそもが〈おとな〉からのラベリングであり、〈こども文化〉と概括してしまうとあしもとがすくわれてしまう気もしています。
どちらかというとそういった世間的に流通しているラベリングを川柳=定型という暴力性によってラベリングしなおしている作業に湊さんの句の意味生成があるようにもおもいます。
定型は暴力なのではないかといまいったのですが、たとえば、「給食のあとで首輪を見たあとで」というのは、川柳=定型としてはかっちりしてますが、意味生成としてはさまざまに枝分かれします。
たとえば、「あとで」なにかをしてからの発話かもしれないし、まだ給食以前の段階であとでしようといっているのかもしれないし、そもそも「首輪」が犬の首輪なのか、それともたとえば「給食」でさえも設定としてのプレイの一環で、「首輪」はそういった逆にSM的な位相を想起させているのかなど、読む位置性によってラベリングはさまざまに可能です。
そのとき、そういったことばが無秩序にこぶしをくりだしてくる、どのようにひっくりかえし、安定した位置性を剥奪しようとしているのかのそもそもの根本要因は、〈定型〉にあります。そして〈川柳〉にもあります。
これが、短歌だったらもう少し意味の方向付けができたかもしれかいし、俳句だったらイメージの現場を季語によってとらえやすかったかもしれない。
でも、川柳は、定型が根拠になるような、あえていえば、純粋暴力として発現するような、ラディカルな部分もおそらくもっています。
川柳は、川柳を、自身を、おそらく、根拠にしています。
だから、読み手を、無断で、殴ってくる。〈読もう〉とするひとを。
シーソーの低いほうから暗くなる 湊圭史
低いほうの人間が夜を感じたのかもしれないし、憂鬱になったのかもしれないし、死んでいっているのかもしれない、シーソーをしながら。
わからないけれども、しかし理性としての定型はきっちり遵守されています。
川柳のラディカルな部分は、定型=理性としてきっちりしていながらも、しかし意味=暴力が発現してしまうところにあるのではないかとおもうのです。
だから、定型は暴力なんじゃないかと。
定型をつかわないひとはやさしいし、定型をつかうひとは殴ることを知っている。た、ぶん。
シャーペンの代わりに傘をさしている 湊圭史
【川柳を詠むひと=殴るひと】
『川柳カード7号』の湊圭史さんの「給食のあとで」からの一句です。
湊さんの、きかんしゃトーマスを殴りつけたり、ディズニーのバンビをひきずったりしている句を読んだときもそうおもったんですが、湊さんの句には、どこか、〈子ども文化〉が暴力的に発現してしまう瞬間をとらえた句が多いのではないかとおもいます。
ただいそいでつけくわえていうと、〈こども文化〉という規定はそもそもが〈おとな〉からのラベリングであり、〈こども文化〉と概括してしまうとあしもとがすくわれてしまう気もしています。
どちらかというとそういった世間的に流通しているラベリングを川柳=定型という暴力性によってラベリングしなおしている作業に湊さんの句の意味生成があるようにもおもいます。
定型は暴力なのではないかといまいったのですが、たとえば、「給食のあとで首輪を見たあとで」というのは、川柳=定型としてはかっちりしてますが、意味生成としてはさまざまに枝分かれします。
たとえば、「あとで」なにかをしてからの発話かもしれないし、まだ給食以前の段階であとでしようといっているのかもしれないし、そもそも「首輪」が犬の首輪なのか、それともたとえば「給食」でさえも設定としてのプレイの一環で、「首輪」はそういった逆にSM的な位相を想起させているのかなど、読む位置性によってラベリングはさまざまに可能です。
そのとき、そういったことばが無秩序にこぶしをくりだしてくる、どのようにひっくりかえし、安定した位置性を剥奪しようとしているのかのそもそもの根本要因は、〈定型〉にあります。そして〈川柳〉にもあります。
これが、短歌だったらもう少し意味の方向付けができたかもしれかいし、俳句だったらイメージの現場を季語によってとらえやすかったかもしれない。
でも、川柳は、定型が根拠になるような、あえていえば、純粋暴力として発現するような、ラディカルな部分もおそらくもっています。
川柳は、川柳を、自身を、おそらく、根拠にしています。
だから、読み手を、無断で、殴ってくる。〈読もう〉とするひとを。
シーソーの低いほうから暗くなる 湊圭史
低いほうの人間が夜を感じたのかもしれないし、憂鬱になったのかもしれないし、死んでいっているのかもしれない、シーソーをしながら。
わからないけれども、しかし理性としての定型はきっちり遵守されています。
川柳のラディカルな部分は、定型=理性としてきっちりしていながらも、しかし意味=暴力が発現してしまうところにあるのではないかとおもうのです。
だから、定型は暴力なんじゃないかと。
定型をつかわないひとはやさしいし、定型をつかうひとは殴ることを知っている。た、ぶん。
シャーペンの代わりに傘をさしている 湊圭史
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