【感想】広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
- 2014/12/13
- 01:26
広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
【共有と分有】
〈広島〉とは関係のない話になりながら、そうしないようにこころみてみるけれど、定型詩を詠むという行為は、じぶんの〈いま、ここ〉とはどうやっても切り離せない行為なんだよなあ、とさいきんとりわけて強く感じることが、ある。
たとえ詠む対象が、事実だろうと、境涯だろうと、虚構だろうと、幻想だろうと、サイエンス・フィクションだろうと、それはみずからの〈いま、ここ〉からとりだされた〈ことばの配列〉であり、その〈ことばの配列〉から配置しなおされた〈いま、ここ〉から〈わたし〉がでてくる。
これは、詠む行為だけでなく、詠まれたものを読むという行為も、そうだ。
〈いま、ここ〉から〈わたし〉は定型詩を〈読む〉しかないし、その〈いま、ここ〉を意識し可視化することで、はじめて別の〈読み〉の回路がひらけるような気もしている。
わたしと、あなたは、〈いま、ここ〉を共有できないことにおいて、ちがう。
どれだけわたしとあなたが似かよっても〈いま、ここ〉だけは共有できない。
ジャン=リュック・ナンシーは、共有できず、理解もされず、しかし、伝達され、流通していく〈なにか〉を〈分有〉されたものと呼んだが、そしてそれはわたしがかつて丸山進さんの「生きてればティッシュを呉れる人がいる」の〈ティッシュ〉にみたものだが、〈いま、ここ〉の非理解的差異において、それでも交換しあう詠み=読みとして、定型詩はあるように、おもう。
広島は〈広島〉にしか〈いま、ここ〉は所有できない。
しかし、「卵食ふ時口ひらく」だけは、この〈わたし〉の〈いま、ここ〉としていつもわたしは「口ひらく」。
「広島」と「卵食ふ時口ひらく」は、おたがいを非理解的に配列化されながらも、めいめいの〈いま、ここ〉を分有しあう。
だから、定型詩において〈見る〉という行為は、いつでも共有化しえない、〈いま、ここ〉を介した分有行為に、なる。
消えてゐるときの螢も見てゐたり 岡田一実
そもそも「存在する」ということが、複数の存在者なしには起こりえない、意味をもちえない、〈分有〉によってはじめて可能になる、あるいはまさに〈分有〉として起こる出来事なのだ。〈分有〉ということは、何かを、あるいは〈有〉を、すなわち〈存在〉を分かち合うことではない。分かつということが〈存在する〉ということなのであり、「存在する」とはつねに「共に」と不可分の複数的な出来事なのだ。
西谷修『無為の共同体』
【共有と分有】
〈広島〉とは関係のない話になりながら、そうしないようにこころみてみるけれど、定型詩を詠むという行為は、じぶんの〈いま、ここ〉とはどうやっても切り離せない行為なんだよなあ、とさいきんとりわけて強く感じることが、ある。
たとえ詠む対象が、事実だろうと、境涯だろうと、虚構だろうと、幻想だろうと、サイエンス・フィクションだろうと、それはみずからの〈いま、ここ〉からとりだされた〈ことばの配列〉であり、その〈ことばの配列〉から配置しなおされた〈いま、ここ〉から〈わたし〉がでてくる。
これは、詠む行為だけでなく、詠まれたものを読むという行為も、そうだ。
〈いま、ここ〉から〈わたし〉は定型詩を〈読む〉しかないし、その〈いま、ここ〉を意識し可視化することで、はじめて別の〈読み〉の回路がひらけるような気もしている。
わたしと、あなたは、〈いま、ここ〉を共有できないことにおいて、ちがう。
どれだけわたしとあなたが似かよっても〈いま、ここ〉だけは共有できない。
ジャン=リュック・ナンシーは、共有できず、理解もされず、しかし、伝達され、流通していく〈なにか〉を〈分有〉されたものと呼んだが、そしてそれはわたしがかつて丸山進さんの「生きてればティッシュを呉れる人がいる」の〈ティッシュ〉にみたものだが、〈いま、ここ〉の非理解的差異において、それでも交換しあう詠み=読みとして、定型詩はあるように、おもう。
広島は〈広島〉にしか〈いま、ここ〉は所有できない。
しかし、「卵食ふ時口ひらく」だけは、この〈わたし〉の〈いま、ここ〉としていつもわたしは「口ひらく」。
「広島」と「卵食ふ時口ひらく」は、おたがいを非理解的に配列化されながらも、めいめいの〈いま、ここ〉を分有しあう。
だから、定型詩において〈見る〉という行為は、いつでも共有化しえない、〈いま、ここ〉を介した分有行為に、なる。
消えてゐるときの螢も見てゐたり 岡田一実
そもそも「存在する」ということが、複数の存在者なしには起こりえない、意味をもちえない、〈分有〉によってはじめて可能になる、あるいはまさに〈分有〉として起こる出来事なのだ。〈分有〉ということは、何かを、あるいは〈有〉を、すなわち〈存在〉を分かち合うことではない。分かつということが〈存在する〉ということなのであり、「存在する」とはつねに「共に」と不可分の複数的な出来事なのだ。
西谷修『無為の共同体』
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