【感想】中村マサコのただならぬ《左手》と田島健一のただならぬ《ぽ》
- 2014/12/13
- 12:00
左手の約束だから春霞 中村マサコ
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
【ただならぬ《わたし/たち》の左手ぽ】
ある方と小池正博さんの右手と右手の句から、右手と左手をめぐる話をさせていただいて、そのときにその方が教えてくださったのが中村マサコさんの左手の掲句です(ちなみにそのときに樋口由紀子さんの左手の句も教えていただきました)。
右手と左手をめぐる文化的背景の差異に以前から興味があるんですが、でもすごくシンプルにかんがえてみると、〈左手〉は基本的に〈ききて〉ではないわけです。
じぶんの身体に所属しつつも、みずから十全にコントロールできないもの。
つまり、〈親密な他者〉ということになります。
よく礼儀作法の本を読んでいると、ものを取るときに左手で取ると礼儀正しくみえるというのは、この〈非ききて〉でふだんの行動をする行為によって〈他者〉の枠組みから、じぶんの枠組みを読み換えていくことになるからだとおもうんです。
左手で行動すれば、ふだんのじぶんの行動ができなくなりますよね。
つまり、じぶんのコードが読み換えられる。
でもそれはあくまでじぶんから読み換えられる。
そうした〈左手〉はマジカルで神秘的で親密なものとしてある。
中村さんの句における〈約束〉も、そうしたマジカルで神秘的で親密なもの「だから」こその、「春霞」なのではないかとおもうのです。
どこかおぼろげでありながらも、それは霞としてみずからも所属している唯物性としてもある。
このとき、この〈左手〉に共振しているのが、じつは田島さんの〈ぽ〉だったりするんじゃないかとおもうんです。
実はわたしたちは左手に親しみをもちながら一生涯その左手に〈馴れ〉ることがないように、「ぽ」に対してもまた、ふだんのことばとしてなんとなく使いながらも、一生涯〈馴れ〉るということが、できないのではないか(ちなみに田島さんのこの句の連作タイトルは「ただならぬぽ」でした)。
「ぽ」をわたしたちはたぶん使える。ポカリとか、ぽかぽかあたたかい、とか、ぽんぽこりん、とか。
けれども、「ぽ」から世界を構成はしない。
「あ」や「ん」や「うん」や「あい」から世界を構成することはあっても、世界の始原にも終末にも、〈ぽ〉は存在していない。
だから〈ぽ〉は〈左手〉の質感と似かよっているのではないかとおもうのです。
もうひとつ、〈ぽ〉の重要な点に、〈ぽ〉はおそらく、はじめて〈定型〉によって見いだされたものではなかったか、というのがあります。
田島さんの句の〈ぽ〉をみてみるとわかりますが、定型の穴を埋めるように〈ぽ〉がつかわれていますが、しかし、あくまでこの句の中心は穴埋めとしての〈ぽ〉ではなく、「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」というような、「ただならぬ海月」や「光追い抜く」の質感そのものを隣接することで根底から塗り替えていく「ぽ」にあるとおもうのです。
「左手」のようにこの「ぽ」がどういう隣接関係を結ぶかを知るのにはわたしたちはそれほど「ぽ」に習熟してはいない。
けれども、質感を知るにはじゅうぶんにわたしたちは人生においてそのときどきに「ぽ」となにげなく、単体ではなく、添えられる〈ぽ〉として発話する。
これまで「ぽ」については、荻原裕幸さんの短歌をとおしてかんがえてきたのですが、そうした〈親密な他者〉としての「ぽ」、わたしたちのコードを読み換えてくる、けれどもわたしたち自身にすでにつねに所属している「ぽ」としての《ぽ》があるのではないかとおもうのです。
マジカルな〈左手〉。マジカルな〈ぽ〉。
マジカルに読み換えられる〈わたし/たち〉。
左手の法則どおりコート脱ぐ 樋口由紀子
ぽぽぽぽとみづいろの昼ぽぽぽぽとさみどりの夜/ボクニ出口ヲ! 荻原裕幸
ぽが二つあるたんぽぽを見失ふ 山田露結
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
【ただならぬ《わたし/たち》の左手ぽ】
ある方と小池正博さんの右手と右手の句から、右手と左手をめぐる話をさせていただいて、そのときにその方が教えてくださったのが中村マサコさんの左手の掲句です(ちなみにそのときに樋口由紀子さんの左手の句も教えていただきました)。
右手と左手をめぐる文化的背景の差異に以前から興味があるんですが、でもすごくシンプルにかんがえてみると、〈左手〉は基本的に〈ききて〉ではないわけです。
じぶんの身体に所属しつつも、みずから十全にコントロールできないもの。
つまり、〈親密な他者〉ということになります。
よく礼儀作法の本を読んでいると、ものを取るときに左手で取ると礼儀正しくみえるというのは、この〈非ききて〉でふだんの行動をする行為によって〈他者〉の枠組みから、じぶんの枠組みを読み換えていくことになるからだとおもうんです。
左手で行動すれば、ふだんのじぶんの行動ができなくなりますよね。
つまり、じぶんのコードが読み換えられる。
でもそれはあくまでじぶんから読み換えられる。
そうした〈左手〉はマジカルで神秘的で親密なものとしてある。
中村さんの句における〈約束〉も、そうしたマジカルで神秘的で親密なもの「だから」こその、「春霞」なのではないかとおもうのです。
どこかおぼろげでありながらも、それは霞としてみずからも所属している唯物性としてもある。
このとき、この〈左手〉に共振しているのが、じつは田島さんの〈ぽ〉だったりするんじゃないかとおもうんです。
実はわたしたちは左手に親しみをもちながら一生涯その左手に〈馴れ〉ることがないように、「ぽ」に対してもまた、ふだんのことばとしてなんとなく使いながらも、一生涯〈馴れ〉るということが、できないのではないか(ちなみに田島さんのこの句の連作タイトルは「ただならぬぽ」でした)。
「ぽ」をわたしたちはたぶん使える。ポカリとか、ぽかぽかあたたかい、とか、ぽんぽこりん、とか。
けれども、「ぽ」から世界を構成はしない。
「あ」や「ん」や「うん」や「あい」から世界を構成することはあっても、世界の始原にも終末にも、〈ぽ〉は存在していない。
だから〈ぽ〉は〈左手〉の質感と似かよっているのではないかとおもうのです。
もうひとつ、〈ぽ〉の重要な点に、〈ぽ〉はおそらく、はじめて〈定型〉によって見いだされたものではなかったか、というのがあります。
田島さんの句の〈ぽ〉をみてみるとわかりますが、定型の穴を埋めるように〈ぽ〉がつかわれていますが、しかし、あくまでこの句の中心は穴埋めとしての〈ぽ〉ではなく、「ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ」というような、「ただならぬ海月」や「光追い抜く」の質感そのものを隣接することで根底から塗り替えていく「ぽ」にあるとおもうのです。
「左手」のようにこの「ぽ」がどういう隣接関係を結ぶかを知るのにはわたしたちはそれほど「ぽ」に習熟してはいない。
けれども、質感を知るにはじゅうぶんにわたしたちは人生においてそのときどきに「ぽ」となにげなく、単体ではなく、添えられる〈ぽ〉として発話する。
これまで「ぽ」については、荻原裕幸さんの短歌をとおしてかんがえてきたのですが、そうした〈親密な他者〉としての「ぽ」、わたしたちのコードを読み換えてくる、けれどもわたしたち自身にすでにつねに所属している「ぽ」としての《ぽ》があるのではないかとおもうのです。
マジカルな〈左手〉。マジカルな〈ぽ〉。
マジカルに読み換えられる〈わたし/たち〉。
左手の法則どおりコート脱ぐ 樋口由紀子
ぽぽぽぽとみづいろの昼ぽぽぽぽとさみどりの夜/ボクニ出口ヲ! 荻原裕幸
ぽが二つあるたんぽぽを見失ふ 山田露結
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