【感想】このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい 斉藤斎藤
- 2014/12/14
- 17:09
このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい 斉藤斎藤
【言いたかったことは言いたかったこと】
短歌のことを詠んでいる短歌というメタ短歌になるとおもうんですが、メタの特徴として、〈いいたいことはない〉けれど、しかしその〈いいたいことのなさ〉という空無化によって《形式》そのものを問う、という自己言及性があります。
つまり、このうたは、「わたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい」といいながらもそのことによって同時に「あらわしなさい」とみずからの内容を〈あらわし〉ている。
けれどもその〈あらわし〉によって同時になにも〈あらわ〉さないことに、なる。
あらわしているのは、「三十一文字」という《形式性》そのものです。
だから、この短歌のみそは、短歌にとって、〈いいたいことはなにもない〉ということなのではないかとおもうのです。
固定化され、参照され、準拠となり、根拠となるような「このうた」も「わたし」も〈短歌〉には、ない。
それは、ずっと解釈学的循環を背負いながら、なんどもなんどもそのつどイデオロギーの束や同時代の政治や文化の恣意性、象徴暴力などもふくみあわせながら、歌そのものに回帰していく。
〈ほんとう〉の「このうた」も、〈ほんとう〉の「わたし」も、〈ほんとう〉の「いいたいこと」も、ない。
ただ、〈ほんとう〉をめぐる〈場〉が、あるだけです。
この歌のように。
母さんがふとんを叩く「母さんがふとんを叩くと感じるのですね」 斉藤斎藤
批評者は、作品の内容ではなく、具体的な言葉の組み立て方を、まずは読み解こうとすべきだ。
作品の構造をていねいに読む努力を怠ると、歌は読者の無意識に添削を施され、誤読される。
それは詩を読む愉しみではなく、読者の公約数的価値観(ステレオタイプ)の再確認に過ぎない。
誤読を極力避けようとしてはじめて、一首の余白が見えてくる。
その「わからなさ」こそが、読者から見た作者の私性だ。
短歌を、詩を読む愉しみとは、他者の「わからない」のほとりに、しばし佇むことではないか。
斉藤斎藤「「わからない」のほとりに佇むこと」『短歌研究』2011/7
【言いたかったことは言いたかったこと】
短歌のことを詠んでいる短歌というメタ短歌になるとおもうんですが、メタの特徴として、〈いいたいことはない〉けれど、しかしその〈いいたいことのなさ〉という空無化によって《形式》そのものを問う、という自己言及性があります。
つまり、このうたは、「わたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい」といいながらもそのことによって同時に「あらわしなさい」とみずからの内容を〈あらわし〉ている。
けれどもその〈あらわし〉によって同時になにも〈あらわ〉さないことに、なる。
あらわしているのは、「三十一文字」という《形式性》そのものです。
だから、この短歌のみそは、短歌にとって、〈いいたいことはなにもない〉ということなのではないかとおもうのです。
固定化され、参照され、準拠となり、根拠となるような「このうた」も「わたし」も〈短歌〉には、ない。
それは、ずっと解釈学的循環を背負いながら、なんどもなんどもそのつどイデオロギーの束や同時代の政治や文化の恣意性、象徴暴力などもふくみあわせながら、歌そのものに回帰していく。
〈ほんとう〉の「このうた」も、〈ほんとう〉の「わたし」も、〈ほんとう〉の「いいたいこと」も、ない。
ただ、〈ほんとう〉をめぐる〈場〉が、あるだけです。
この歌のように。
母さんがふとんを叩く「母さんがふとんを叩くと感じるのですね」 斉藤斎藤
批評者は、作品の内容ではなく、具体的な言葉の組み立て方を、まずは読み解こうとすべきだ。
作品の構造をていねいに読む努力を怠ると、歌は読者の無意識に添削を施され、誤読される。
それは詩を読む愉しみではなく、読者の公約数的価値観(ステレオタイプ)の再確認に過ぎない。
誤読を極力避けようとしてはじめて、一首の余白が見えてくる。
その「わからなさ」こそが、読者から見た作者の私性だ。
短歌を、詩を読む愉しみとは、他者の「わからない」のほとりに、しばし佇むことではないか。
斉藤斎藤「「わからない」のほとりに佇むこと」『短歌研究』2011/7
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想