【お知らせ】「『ユリイカ臨時増刊金原まさ子』と/を読む『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』 緊縛された村上春樹とジョルジュ・ポンピドゥ・センター」『週刊俳句 Haiku Weekly第399号』
- 2014/12/15
- 00:00
『週刊俳句 Haiku Weekly第399号』にて「 『ユリイカ臨時増刊金原まさ子』と/を読む『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』 緊縛された村上春樹とジョルジュ・ポンピドゥ・センター」という文章を載せていただきました。『週刊俳句』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今年『週刊俳句』及び『裏週刊俳句(ウラハイ)』にのせていただいた記事で、
丸山進さんの句から生の分有を、
西原天気さんの句から助辞から立ち上がる語り手のありようを、
なかはられいこさんの句から表面を滑走する深さを、
樋口由紀子さんの句から不可逆としての境界を、
「おかじょうき」の方々の句から手紙をめぐる言語化を、
時実新子さんの句からかたちとしての私性を、
又吉直樹さんの句から死角の位置性を、
野口る理さんの句からキャラクターの身体とわたしたちの身体の葛藤と節合を、
むさしさんの句から自然をめぐるわたしとことばを、
矢島玖美子さんの句から匣としての定型を、
湊圭史さんの句から暴力と表現を、
福田若之さんの句からデジタル=ゲームと内面を、
倉本朝世さんの句からマヨネーズをめぐる愛を、
金原まさ子さんの句から書物をめぐる引用を、
かんがえさせていただくことができました、
『週刊俳句』編集部に重ねてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
*
金原まさ子さんの句集をかつてわたしは勘違いをして川柳の句集として読んでいたことがあったんですが、ただこの〈誤読〉はむしろ金原さんの句の接続性の多様さなのではないかとおもっていて、〈誤読〉する読者をも〈むしろ〉招待する。
それが金原さんの句のひとつの魅力なのではないかとおもうのです。
わたしは『ユリイカ』がけっこう好きでよく読むのですが、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』はきっと金原さんの創作に違いないと勝手におもいこんでいて、調べてみたら実際に存在したので、びびってしまい、その〈びびり〉から今回書き始めました。
ですから、今回のわたしの文章は、かつて川柳として金原さんの句集を読んでしまっていたという〈びびり〉と、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』は金原さんのフィクションに違いないと勝手な思いこみをしていたという〈びびり〉の、ふたつのびびりが始原になっています。
だから、びびりとおしてみたのです。
かつて関悦史さんの句集を読んだときも、高山れおなさんの句集を眼にしたときも、同様に、なんだろうこれは、とびびっていたので、〈書物〉の連鎖というよりも、〈びびり〉の連鎖を基底にして書いてみました。
最後に寺山修司の歌を引用しましたが、この歌に「てのひら閉じひらき」とあるように、おそらく、〈書物の起源〉はいまわたしのこの閉じたりひらいたりしている手でありつつも、そんなものはどこにも存在しないものとして存在しているようにもおもうのです。
それは〈書物〉が〈引用〉として口にだされた瞬間、明滅するだけで、実際には書物はそもそも〈引用〉などできるわけがなく、「てのひら閉じひらき」しているだけのようにもおもうのです。
でも、だとしたら、書物を〈引用〉する行為ってなんだろう、とおもうんです。
しかも、定型において。こんなにも短く、こんなにも長い、定型のなかで。
ひとは書物の名前をくちにしたとたんに、どこにもない場所で、じしんが迷宮化するのではないか。最果てのない、オープニングも、エンディングもない、めくっても、めくっても、閉じても、ひらいても、いま、ここ、しかない、〈砂の本〉みたいに。
そんなようにも、おもうのです。
〈引用〉とはおそらく〈わたし〉が引き受けるしかない〈時間〉としての場所をつくりだす行為である、と。
そこで〈引用〉されているのは、むしろ〈わたし〉の〈時間〉なのではないかと。
ところで、『美坊主図鑑』は、もう読まれましたか?
青鮫が「美坊主図鑑」購いゆきぬ 金原まさ子
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今年『週刊俳句』及び『裏週刊俳句(ウラハイ)』にのせていただいた記事で、
丸山進さんの句から生の分有を、
西原天気さんの句から助辞から立ち上がる語り手のありようを、
なかはられいこさんの句から表面を滑走する深さを、
樋口由紀子さんの句から不可逆としての境界を、
「おかじょうき」の方々の句から手紙をめぐる言語化を、
時実新子さんの句からかたちとしての私性を、
又吉直樹さんの句から死角の位置性を、
野口る理さんの句からキャラクターの身体とわたしたちの身体の葛藤と節合を、
むさしさんの句から自然をめぐるわたしとことばを、
矢島玖美子さんの句から匣としての定型を、
湊圭史さんの句から暴力と表現を、
福田若之さんの句からデジタル=ゲームと内面を、
倉本朝世さんの句からマヨネーズをめぐる愛を、
金原まさ子さんの句から書物をめぐる引用を、
かんがえさせていただくことができました、
『週刊俳句』編集部に重ねてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
*
金原まさ子さんの句集をかつてわたしは勘違いをして川柳の句集として読んでいたことがあったんですが、ただこの〈誤読〉はむしろ金原さんの句の接続性の多様さなのではないかとおもっていて、〈誤読〉する読者をも〈むしろ〉招待する。
それが金原さんの句のひとつの魅力なのではないかとおもうのです。
わたしは『ユリイカ』がけっこう好きでよく読むのですが、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』はきっと金原さんの創作に違いないと勝手におもいこんでいて、調べてみたら実際に存在したので、びびってしまい、その〈びびり〉から今回書き始めました。
ですから、今回のわたしの文章は、かつて川柳として金原さんの句集を読んでしまっていたという〈びびり〉と、『ユリイカ臨時増刊悪趣味大全』は金原さんのフィクションに違いないと勝手な思いこみをしていたという〈びびり〉の、ふたつのびびりが始原になっています。
だから、びびりとおしてみたのです。
かつて関悦史さんの句集を読んだときも、高山れおなさんの句集を眼にしたときも、同様に、なんだろうこれは、とびびっていたので、〈書物〉の連鎖というよりも、〈びびり〉の連鎖を基底にして書いてみました。
最後に寺山修司の歌を引用しましたが、この歌に「てのひら閉じひらき」とあるように、おそらく、〈書物の起源〉はいまわたしのこの閉じたりひらいたりしている手でありつつも、そんなものはどこにも存在しないものとして存在しているようにもおもうのです。
それは〈書物〉が〈引用〉として口にだされた瞬間、明滅するだけで、実際には書物はそもそも〈引用〉などできるわけがなく、「てのひら閉じひらき」しているだけのようにもおもうのです。
でも、だとしたら、書物を〈引用〉する行為ってなんだろう、とおもうんです。
しかも、定型において。こんなにも短く、こんなにも長い、定型のなかで。
ひとは書物の名前をくちにしたとたんに、どこにもない場所で、じしんが迷宮化するのではないか。最果てのない、オープニングも、エンディングもない、めくっても、めくっても、閉じても、ひらいても、いま、ここ、しかない、〈砂の本〉みたいに。
そんなようにも、おもうのです。
〈引用〉とはおそらく〈わたし〉が引き受けるしかない〈時間〉としての場所をつくりだす行為である、と。
そこで〈引用〉されているのは、むしろ〈わたし〉の〈時間〉なのではないかと。
ところで、『美坊主図鑑』は、もう読まれましたか?
青鮫が「美坊主図鑑」購いゆきぬ 金原まさ子
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