【感想】加藤治郎『うたびとの日々』-「選」としてのメディア性-
- 2014/05/13
- 03:30
加藤治郎さんの『うたびとの日々』の「選からはじまる」に次のような一文がある。
歌人の一生は「選」である。選ばれ、選ぶ。その螺旋的な繰り返しだ。
ずっとくりかえし考えている一文である(ちなみに同書には「新聞歌壇の現在」という「新聞歌壇」と短歌の関係性をどのように構築していけばいいかを考えるためのアクチュアルな文章も掲載されている)。
短歌というのはふしぎなメディアの〈場〉をもった文芸様式だとおもう。
こんなにも「選」という形式が「場」を織りなす表現形式もなかなかないのではないだろうか。
それは、いったい、なにを意味するのだろう。
わたしなりにかんがえてみるにそれはおそらくこういうことなのではないだろうか。
短歌には、二重のメディア性がある。
ひとつは、受け皿としての〈場〉がつくるメディアである。たとえばそれは「新聞歌壇」だったり、「同人誌」だったり、「雑誌」だったり、「放送媒体」だったりする。
もうひとつは、選者がつくっていく〈人〉としてのメディア性である。たとえば、さきほどの「新聞歌壇の現在」という文章で加藤さんがこんなふうに述べている。「選者の個性が投稿者を引きつけるのだ」と。このことばをあえてわたしなりに敷衍してみるならば、選者というメディアによって短歌は再度息吹をうけ、読み直しを詠み手自身に求めてくるのではないだろうか。
もちろん、それによって読みが劇的に変わるということではない。しかし、短歌は選ばれたことによって詠み手自身の短歌に対する詠み/読みのモードも変わっていくのではないだろうか。それはもしかすると「歌が選ばれた」ことの〈不可逆〉が織りなす意識から派生しているのかもしれないともおもう。印刷メディアを介した以上、もうテキストとしては詠みなおすことはできない。しかしその不可逆によって詠み手自身はもういちどみずからの短歌を不可逆をひきうけたうたとして読み直すことになる。おなじ読みかもしれないし、ちがう読みになるかもしれないが、〈場〉と〈選者〉の二重のメディアを通過した磁場のなかでもういちど読み直すのではないか。
それは〈歌集〉というある意味、初出のメディア臭さが消えてしまう表層にあるメディアからはみえてこない短歌の深層意識である。しかし、そのひろいあげた瞬間きえてしまうようなメディアにまつわる〈意識〉についてわたしは『うたびとの日々』を読みながらかんがえたりした。文脈化されないような文脈のことを、亡霊化してしまう文脈のことをときどきは想起してもいいのではないかと。それはおそらく、「うたびと」が「うたびと」と出会ったときに生じる「うたびと」をめぐる深層意識のことだ。
最後に「新聞歌壇の現在」から加藤治郎さんの文章を引用して終わりにしたい。
文学運動としての新聞歌壇を夢みている。そこは、アマチュアからプロまで巻き込んだ短歌総合の場である。日常生活を詠う作品にとどまらない。現代を生きる人間の深層に届く表現が競い合われる。何百万人という新聞読者の目の離せない場となり、新たな短歌作者の登場を促すのである。明治時代に始まった新聞歌壇が「文学青年のエネルギーを吸引する役割をもった」(篠弘)活発な文学運動の場であったことを想起したい。無論、若手に限る必要はない。幅広い年齢層による生の根拠を模索する現場であってよい。
(……)最近は他ジャンルとりわけ川柳からの越境者もいて、面白い現象だと思っている。そこまでは想定していなかった。広く詩歌を愛好する人々のオープンな場になったら、これほどうれしいことはないのである。
加藤治郎「新聞歌壇の現在」『うたびとの日々』
歌人の一生は「選」である。選ばれ、選ぶ。その螺旋的な繰り返しだ。
ずっとくりかえし考えている一文である(ちなみに同書には「新聞歌壇の現在」という「新聞歌壇」と短歌の関係性をどのように構築していけばいいかを考えるためのアクチュアルな文章も掲載されている)。
短歌というのはふしぎなメディアの〈場〉をもった文芸様式だとおもう。
こんなにも「選」という形式が「場」を織りなす表現形式もなかなかないのではないだろうか。
それは、いったい、なにを意味するのだろう。
わたしなりにかんがえてみるにそれはおそらくこういうことなのではないだろうか。
短歌には、二重のメディア性がある。
ひとつは、受け皿としての〈場〉がつくるメディアである。たとえばそれは「新聞歌壇」だったり、「同人誌」だったり、「雑誌」だったり、「放送媒体」だったりする。
もうひとつは、選者がつくっていく〈人〉としてのメディア性である。たとえば、さきほどの「新聞歌壇の現在」という文章で加藤さんがこんなふうに述べている。「選者の個性が投稿者を引きつけるのだ」と。このことばをあえてわたしなりに敷衍してみるならば、選者というメディアによって短歌は再度息吹をうけ、読み直しを詠み手自身に求めてくるのではないだろうか。
もちろん、それによって読みが劇的に変わるということではない。しかし、短歌は選ばれたことによって詠み手自身の短歌に対する詠み/読みのモードも変わっていくのではないだろうか。それはもしかすると「歌が選ばれた」ことの〈不可逆〉が織りなす意識から派生しているのかもしれないともおもう。印刷メディアを介した以上、もうテキストとしては詠みなおすことはできない。しかしその不可逆によって詠み手自身はもういちどみずからの短歌を不可逆をひきうけたうたとして読み直すことになる。おなじ読みかもしれないし、ちがう読みになるかもしれないが、〈場〉と〈選者〉の二重のメディアを通過した磁場のなかでもういちど読み直すのではないか。
それは〈歌集〉というある意味、初出のメディア臭さが消えてしまう表層にあるメディアからはみえてこない短歌の深層意識である。しかし、そのひろいあげた瞬間きえてしまうようなメディアにまつわる〈意識〉についてわたしは『うたびとの日々』を読みながらかんがえたりした。文脈化されないような文脈のことを、亡霊化してしまう文脈のことをときどきは想起してもいいのではないかと。それはおそらく、「うたびと」が「うたびと」と出会ったときに生じる「うたびと」をめぐる深層意識のことだ。
最後に「新聞歌壇の現在」から加藤治郎さんの文章を引用して終わりにしたい。
文学運動としての新聞歌壇を夢みている。そこは、アマチュアからプロまで巻き込んだ短歌総合の場である。日常生活を詠う作品にとどまらない。現代を生きる人間の深層に届く表現が競い合われる。何百万人という新聞読者の目の離せない場となり、新たな短歌作者の登場を促すのである。明治時代に始まった新聞歌壇が「文学青年のエネルギーを吸引する役割をもった」(篠弘)活発な文学運動の場であったことを想起したい。無論、若手に限る必要はない。幅広い年齢層による生の根拠を模索する現場であってよい。
(……)最近は他ジャンルとりわけ川柳からの越境者もいて、面白い現象だと思っている。そこまでは想定していなかった。広く詩歌を愛好する人々のオープンな場になったら、これほどうれしいことはないのである。
加藤治郎「新聞歌壇の現在」『うたびとの日々』
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