【感想】首桶がインターチェンジに置いてある 石田柊馬
- 2014/12/14
- 23:59
首桶がインターチェンジに置いてある 石田柊馬
【回帰する世界】
『川柳カード7号』における石田柊馬さんの連作「這うてやる」からの一句です。
首桶っていうのは討ち取った生首をいれていおく入れ物なんですが、インターチェンジにはたぶん〈置いてない〉んですよね。
でも、「置いてある」。
こんなふうに石田さんの句は〈ありえない〉ものがあらかじめなんの違和感もなく〈前提〉として配合されている世界観が感じられます。
アレキサンダー大王のスマホは入浴する 石田柊馬
象亀のグラニュー糖的楽観を 〃
ときどき、語り手の信憑性というのが小説では問題になります。
たとえばミステリなんかでは語り手が犯人なのに嘘をついて〈わたし〉として語っている場合なんかがあります。まるでわたしが犯人でないように語るわけです。そのとき語り手は信頼できない語り手ということになります。
ストーカーの『ドラキュラ』なんかも語り手はドラキュラを倒すサイドばかりで語りを構成して、ドラキュラ側からの語りはいっさい用意しません。そのため、ドラキュラの〈内面〉はわからないことになります。
またたとえば語り手が恋をしてしまった場合、ある登場人物だけ語りの量が多くなったり、描写にバイアスがかかったりしてきます。恣意的判断をする場合もあります。
そういう語り手のバイアスというのがある。
川柳の語り手をまずわたしたちは信頼します。
たとえば「首桶がインターチェンジに置いてある」といわれれば、いやそんなはずはない、と思わずに、むしろ「置いてある」世界をじぶんでイメージしてみます。
そうした川柳の語り手への絶対的信頼感にわたしはときどき川柳のおもしろさをみていて、その絶対的信頼感によって〈ありえない〉世界をナチュラルなものにしているのが石田さんの川柳のおもしろさだったりするのではないかとおもうのです。
でも、なぜ、川柳の語り手へ絶対的信頼を寄せてしまうのか。
たとえば、アレキサンダー大王はスマホをもっていない、とはわたしたちはたぶん思わない。
これは川柳を読むときの〈視線〉のありかたと関係しているのではないかとも思うのです。
たとえば、小説を読むときは、〈ありえない〉ようなことが書いてあってもその〈さき〉にその〈ありえなさ〉が説明されているとどこかで思いながら読み進める。むしろ小説の快楽とはそういった〈説明の遅延〉によって進んでいく動力にあります。視線はだから先へ先へと進んでいく。
けれども川柳に〈説明の遅延〉はありません。それが〈説明〉だからです。だから視線は先ではなく、前へ前へとたえず回帰する。「首桶がインターチェンジに置いてある」を読んだ後にすぐまた「首桶が」が、くる。
でもそのときにわたしたちは自身で〈説明〉をします。
「置いてある」と書いてあったし知っているので「首桶が」と回帰したときにそれはもうすでに「置いてある」「首桶」になる。それはもうすでに「インターチェンジに置いてある」「首桶」になる。
川柳に、〈ふしぎ〉はないのです。
それは、わたしたちが〈読む〉行為によって、書かれた世界を、回帰することによって成立させてしまうからです。
その〈読むことの回帰〉がわたしは川柳の語り手への絶対的信頼感になっているようにもおもうのです。
わからないからもういちど前へもどる。わかっても終わってしまってからもういちど前へもどってよむ。
そのときわたしたちはその回帰によって世界を成立させ、受け入れている。なぜなら前にもどってこれからたどる世界はもうわたしが親しんだ、知悉した、世界だから。
待って下さいと山羊がいうてるではないか 石田柊馬
【回帰する世界】
『川柳カード7号』における石田柊馬さんの連作「這うてやる」からの一句です。
首桶っていうのは討ち取った生首をいれていおく入れ物なんですが、インターチェンジにはたぶん〈置いてない〉んですよね。
でも、「置いてある」。
こんなふうに石田さんの句は〈ありえない〉ものがあらかじめなんの違和感もなく〈前提〉として配合されている世界観が感じられます。
アレキサンダー大王のスマホは入浴する 石田柊馬
象亀のグラニュー糖的楽観を 〃
ときどき、語り手の信憑性というのが小説では問題になります。
たとえばミステリなんかでは語り手が犯人なのに嘘をついて〈わたし〉として語っている場合なんかがあります。まるでわたしが犯人でないように語るわけです。そのとき語り手は信頼できない語り手ということになります。
ストーカーの『ドラキュラ』なんかも語り手はドラキュラを倒すサイドばかりで語りを構成して、ドラキュラ側からの語りはいっさい用意しません。そのため、ドラキュラの〈内面〉はわからないことになります。
またたとえば語り手が恋をしてしまった場合、ある登場人物だけ語りの量が多くなったり、描写にバイアスがかかったりしてきます。恣意的判断をする場合もあります。
そういう語り手のバイアスというのがある。
川柳の語り手をまずわたしたちは信頼します。
たとえば「首桶がインターチェンジに置いてある」といわれれば、いやそんなはずはない、と思わずに、むしろ「置いてある」世界をじぶんでイメージしてみます。
そうした川柳の語り手への絶対的信頼感にわたしはときどき川柳のおもしろさをみていて、その絶対的信頼感によって〈ありえない〉世界をナチュラルなものにしているのが石田さんの川柳のおもしろさだったりするのではないかとおもうのです。
でも、なぜ、川柳の語り手へ絶対的信頼を寄せてしまうのか。
たとえば、アレキサンダー大王はスマホをもっていない、とはわたしたちはたぶん思わない。
これは川柳を読むときの〈視線〉のありかたと関係しているのではないかとも思うのです。
たとえば、小説を読むときは、〈ありえない〉ようなことが書いてあってもその〈さき〉にその〈ありえなさ〉が説明されているとどこかで思いながら読み進める。むしろ小説の快楽とはそういった〈説明の遅延〉によって進んでいく動力にあります。視線はだから先へ先へと進んでいく。
けれども川柳に〈説明の遅延〉はありません。それが〈説明〉だからです。だから視線は先ではなく、前へ前へとたえず回帰する。「首桶がインターチェンジに置いてある」を読んだ後にすぐまた「首桶が」が、くる。
でもそのときにわたしたちは自身で〈説明〉をします。
「置いてある」と書いてあったし知っているので「首桶が」と回帰したときにそれはもうすでに「置いてある」「首桶」になる。それはもうすでに「インターチェンジに置いてある」「首桶」になる。
川柳に、〈ふしぎ〉はないのです。
それは、わたしたちが〈読む〉行為によって、書かれた世界を、回帰することによって成立させてしまうからです。
その〈読むことの回帰〉がわたしは川柳の語り手への絶対的信頼感になっているようにもおもうのです。
わからないからもういちど前へもどる。わかっても終わってしまってからもういちど前へもどってよむ。
そのときわたしたちはその回帰によって世界を成立させ、受け入れている。なぜなら前にもどってこれからたどる世界はもうわたしが親しんだ、知悉した、世界だから。
待って下さいと山羊がいうてるではないか 石田柊馬
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