【感想】否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる 飯島章友
- 2014/12/16
- 00:00
否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる 飯島章友
なぜ、テスト氏は存在しえないか?──この問こそ、彼の《魂》である。《この問がひとをテスト氏に変える》。彼は、可能性の魔にほかならないからである。おのれのなしうることの総体にたいする関心が彼を支配している。
ヴァレリー『テスト氏』
【SA/SE:code】
『川柳カード7号』の「シニフィアン・シニフィエ」における飯島章友さんの一句です。
こんなふうにソシュールの思想に基づく記号論のタームであるシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の2句があります。
否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる 飯島章友
九月の蝉を拾い集めるシニフィエ氏 〃
まるでヴァレリーの『テスト氏』を彷彿させるシニフィアンとシニフィエの人格化なのですが、たとえばシニフィアン=記号表現というのは、意味を決定しえないような意味を発現するなにか、です。
だから、たとえば、表情が、そうです。ある表情がふっとあらわれる。
その表情=記号表現があらわれたときに、わたしたちは、それを、かなしみ、や、よろこびとして意味を決定し記号内容=シニフィエとして措定しますよね。
そうしたシニフィアンとシニフィエがいっしょくたになったものをシーニュ(記号)といいます(だから潜在的にはこの連作にはおそらくシーニュ氏もいます)。
ちなみにそのシニフィアン(表情)とシニフィエ(かなしみ・よろこび)をくっつけるのが、コードです。
だからこのシニフィアン氏とシニフィエ氏がいる連作ではとつぜん「XII」というシニフィエ(記号内容)が、「海」としてシニフィアン(記号表現)化して回想されたりもします。
文字盤のXIIが海であったころ 飯島章友
また、その逆に、シニフィアンがシニフィエ化してゆくような一句もります。
手鏡の縁がとけゆく 雨ですね 飯島章友
飯島さんの連作を読んでいて思ったのですが、川柳にとって意味表現と意味内容のズレや恣意性を検討する記号論というのはけっこう大事なのではないかとおもうのです。
むしろ、記号論に沿ってわたしたちが思考している領域で残存したのが川柳だったのではないか、とすらおもってしまいます。
これはかんがえてみると、俳句とはけっこう異なる点です。
俳句はもちろん記号論的読解もできると思いますが、むしろそうした意味のズレのようなものではなく、記号を排したところに、むしろ記号が総ざらいしたあとにそれでもぽんとことばが置かれてしまった、もしくは置いてしまった、もしくは置いた、非意味性がわたしには俳句のような気もしています。
けれども、その逆に記号があふれてやまない場所、記号のズレをむしろ増幅させ加速させている場所でそこにさらにことばを置いてしまった、もしくは置くのが川柳のようにもおもいます。
俳句が、記号が剥奪された場所であえてそれでもことばをうちたてる行為ならば、川柳は記号が与えられすぎた場所であえてそれでもことばをうちたてる行為といったらいいでしょうか(非意味的な場所におけることば、と、意味的な場所におけることば、といってもいいかもしれません)。
こうした記号論からジャンルをとらえるひとつの利点は、ジャンルを必然的な総体としてとらえるのではなく、どこまでも決めかねるような、偶然性の総体としてとらえられることではないかとおもいます。
記号論は果てがないんですが、しかしその果てがないなかで、みずからの恣意性に気がつくときがあります。
じぶんがどのようなコードをもっているか、ということです。
かんたんにいえば、たとえば「男」(シニフィアン=記号表現)と発話したときに、各人の〈想起〉(シニフィエ=記号内容)があるということです。
そうかんがえると、川柳も俳句もジャンルも、巨大なシニフィアンとしてつづいてゆくことになります。
それでも、そのつど、くちびるがシーニュを、意味の暫定的決定をひきうけていきます。
くちびるはうわくちびる(シニフィアン)としたくちびる(シニフィエ)がひらき、あわさり、ひとつのシーニュをなしています。
くちびるは天地をむすぶ雲かしら 飯島章友
彼においては、心理現象が、内部での交換や《諸価値》からの分離の絶頂に達している。
思考もまた(彼が《彼》であるときは)、《世界》との類似や混同から分離されており、また一方では、感情的な諸価値からも分離されている。彼は、おのれの思考を、純粋に偶然的なものとして眺めているのだ。
ヴァレリー『テスト氏』
なぜ、テスト氏は存在しえないか?──この問こそ、彼の《魂》である。《この問がひとをテスト氏に変える》。彼は、可能性の魔にほかならないからである。おのれのなしうることの総体にたいする関心が彼を支配している。
ヴァレリー『テスト氏』
【SA/SE:code】
『川柳カード7号』の「シニフィアン・シニフィエ」における飯島章友さんの一句です。
こんなふうにソシュールの思想に基づく記号論のタームであるシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の2句があります。
否と言うシニフィアン氏のうすいくちびる 飯島章友
九月の蝉を拾い集めるシニフィエ氏 〃
まるでヴァレリーの『テスト氏』を彷彿させるシニフィアンとシニフィエの人格化なのですが、たとえばシニフィアン=記号表現というのは、意味を決定しえないような意味を発現するなにか、です。
だから、たとえば、表情が、そうです。ある表情がふっとあらわれる。
その表情=記号表現があらわれたときに、わたしたちは、それを、かなしみ、や、よろこびとして意味を決定し記号内容=シニフィエとして措定しますよね。
そうしたシニフィアンとシニフィエがいっしょくたになったものをシーニュ(記号)といいます(だから潜在的にはこの連作にはおそらくシーニュ氏もいます)。
ちなみにそのシニフィアン(表情)とシニフィエ(かなしみ・よろこび)をくっつけるのが、コードです。
だからこのシニフィアン氏とシニフィエ氏がいる連作ではとつぜん「XII」というシニフィエ(記号内容)が、「海」としてシニフィアン(記号表現)化して回想されたりもします。
文字盤のXIIが海であったころ 飯島章友
また、その逆に、シニフィアンがシニフィエ化してゆくような一句もります。
手鏡の縁がとけゆく 雨ですね 飯島章友
飯島さんの連作を読んでいて思ったのですが、川柳にとって意味表現と意味内容のズレや恣意性を検討する記号論というのはけっこう大事なのではないかとおもうのです。
むしろ、記号論に沿ってわたしたちが思考している領域で残存したのが川柳だったのではないか、とすらおもってしまいます。
これはかんがえてみると、俳句とはけっこう異なる点です。
俳句はもちろん記号論的読解もできると思いますが、むしろそうした意味のズレのようなものではなく、記号を排したところに、むしろ記号が総ざらいしたあとにそれでもぽんとことばが置かれてしまった、もしくは置いてしまった、もしくは置いた、非意味性がわたしには俳句のような気もしています。
けれども、その逆に記号があふれてやまない場所、記号のズレをむしろ増幅させ加速させている場所でそこにさらにことばを置いてしまった、もしくは置くのが川柳のようにもおもいます。
俳句が、記号が剥奪された場所であえてそれでもことばをうちたてる行為ならば、川柳は記号が与えられすぎた場所であえてそれでもことばをうちたてる行為といったらいいでしょうか(非意味的な場所におけることば、と、意味的な場所におけることば、といってもいいかもしれません)。
こうした記号論からジャンルをとらえるひとつの利点は、ジャンルを必然的な総体としてとらえるのではなく、どこまでも決めかねるような、偶然性の総体としてとらえられることではないかとおもいます。
記号論は果てがないんですが、しかしその果てがないなかで、みずからの恣意性に気がつくときがあります。
じぶんがどのようなコードをもっているか、ということです。
かんたんにいえば、たとえば「男」(シニフィアン=記号表現)と発話したときに、各人の〈想起〉(シニフィエ=記号内容)があるということです。
そうかんがえると、川柳も俳句もジャンルも、巨大なシニフィアンとしてつづいてゆくことになります。
それでも、そのつど、くちびるがシーニュを、意味の暫定的決定をひきうけていきます。
くちびるはうわくちびる(シニフィアン)としたくちびる(シニフィエ)がひらき、あわさり、ひとつのシーニュをなしています。
くちびるは天地をむすぶ雲かしら 飯島章友
彼においては、心理現象が、内部での交換や《諸価値》からの分離の絶頂に達している。
思考もまた(彼が《彼》であるときは)、《世界》との類似や混同から分離されており、また一方では、感情的な諸価値からも分離されている。彼は、おのれの思考を、純粋に偶然的なものとして眺めているのだ。
ヴァレリー『テスト氏』
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