【感想】裏側に入れてほしくてあたらしく覚えてしまう脚の曲げ方 田丸まひる
- 2014/12/16
- 12:00
裏側に入れてほしくてあたらしく覚えてしまう脚の曲げ方 田丸まひる
【〈わたくし〉というゲシュタルト】
田丸さんは〈性愛〉を詠んだ短歌が多いとも思うんですが、同時に大事なことは〈性愛〉を詠みながらも〈性愛〉を形式的にはまったく詠んでいない点なんじゃないかともおもうんです。
たとえば上の歌なんですが、「裏側」「入れてほしくて」「覚えてしまう」「脚の曲げ方」。これらはひとつひとつは〈性愛〉そのものではない、ただゲシュタルトして総合化してゆく過程で〈性愛〉の近似値になる。でも、〈性愛〉ではない。
たとえば、少女の顔にも老婆の顔にもみえるだまし絵ってありますよね。
少女としてゲシュタルトすれば少女だし、老婆としてゲシュタルトすれば老婆になる。
でも、じゃあこの絵はなんなのか、といわれたら、線の集合体というしかないですよね。
このじぶんがゲシュタルトした結果、それを少女としてみたり、老婆としてみたりしているのはわかっているので。
だからじぶんがまったく文化のコードから外れていて、いわばゲシュタルト崩壊しているような状態から、もしくは印象主義の画家たちがみていた輪郭のない世界としてそれをみるならば、それは少女にも老婆にもならないかもしれない。
おなじようにまひるさんの短歌も、まったく〈性愛〉と関係ない〈裏側〉をつねに含みあわせている。
だからここで語られているのは、〈性愛〉じゃなくて、いかに読み手にゲシュタルトさせるかというゲシュタルトの過程のようにもおもうんです。
「裏側に入れてほしくて」→「あたらしく覚えてしまう」→「脚の曲げ方」と、この歌を読んでいくプロセスにしたがって、プロセスそのものからわたしたちは〈教育〉され、最終的にゲシュタルトしてしまう。ただこの歌の語り手は決定因(これは少女です、老婆です)といった指示子を示していないので、読み手はすぐにじしんのゲシュタルトしている〈作為性〉に気がつく。
そのとき、わたしたちはこの歌を読むと同時にみずからの読みのプロセスそのものを投射しながら詠んでいく。
そんなふうに、読み手を安全な位置に置かない、ことばを読むということはじしんの読みの投射と等価交換である、ということを教えてくれるのがまひるさんの短歌のようにもおもうんです。
歌を読むということは決して安全な行為ではない。他者のことばを読みくだすことは、じしんがすでにつねに巻き込まれざるをえない行為なんだと。
読み手はいつも不在ではなく、短歌にはつねに行為と過程としての〈わたし〉という読み手が現前化している。だから、いつも、短歌を読むたびに、〈わたし〉は〈わたし〉を新しく覚えてしまう。
父親の不在を二回くらいならわたしも武器にしたことがある 田丸まひる
【〈わたくし〉というゲシュタルト】
田丸さんは〈性愛〉を詠んだ短歌が多いとも思うんですが、同時に大事なことは〈性愛〉を詠みながらも〈性愛〉を形式的にはまったく詠んでいない点なんじゃないかともおもうんです。
たとえば上の歌なんですが、「裏側」「入れてほしくて」「覚えてしまう」「脚の曲げ方」。これらはひとつひとつは〈性愛〉そのものではない、ただゲシュタルトして総合化してゆく過程で〈性愛〉の近似値になる。でも、〈性愛〉ではない。
たとえば、少女の顔にも老婆の顔にもみえるだまし絵ってありますよね。
少女としてゲシュタルトすれば少女だし、老婆としてゲシュタルトすれば老婆になる。
でも、じゃあこの絵はなんなのか、といわれたら、線の集合体というしかないですよね。
このじぶんがゲシュタルトした結果、それを少女としてみたり、老婆としてみたりしているのはわかっているので。
だからじぶんがまったく文化のコードから外れていて、いわばゲシュタルト崩壊しているような状態から、もしくは印象主義の画家たちがみていた輪郭のない世界としてそれをみるならば、それは少女にも老婆にもならないかもしれない。
おなじようにまひるさんの短歌も、まったく〈性愛〉と関係ない〈裏側〉をつねに含みあわせている。
だからここで語られているのは、〈性愛〉じゃなくて、いかに読み手にゲシュタルトさせるかというゲシュタルトの過程のようにもおもうんです。
「裏側に入れてほしくて」→「あたらしく覚えてしまう」→「脚の曲げ方」と、この歌を読んでいくプロセスにしたがって、プロセスそのものからわたしたちは〈教育〉され、最終的にゲシュタルトしてしまう。ただこの歌の語り手は決定因(これは少女です、老婆です)といった指示子を示していないので、読み手はすぐにじしんのゲシュタルトしている〈作為性〉に気がつく。
そのとき、わたしたちはこの歌を読むと同時にみずからの読みのプロセスそのものを投射しながら詠んでいく。
そんなふうに、読み手を安全な位置に置かない、ことばを読むということはじしんの読みの投射と等価交換である、ということを教えてくれるのがまひるさんの短歌のようにもおもうんです。
歌を読むということは決して安全な行為ではない。他者のことばを読みくだすことは、じしんがすでにつねに巻き込まれざるをえない行為なんだと。
読み手はいつも不在ではなく、短歌にはつねに行為と過程としての〈わたし〉という読み手が現前化している。だから、いつも、短歌を読むたびに、〈わたし〉は〈わたし〉を新しく覚えてしまう。
父親の不在を二回くらいならわたしも武器にしたことがある 田丸まひる
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想