【感想】三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった 平岡直子
- 2014/12/16
- 12:30
三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった 平岡直子
【宗教をするかなしいだった】
以前このブログで、山中千瀬さんの「行ったきり帰ってこない猫たちのためにしずかに宗教をする」の感想文を書かせていただいたことがあって、そのあともその山中さんの歌をときどき思い出しては「宗教をする」っていったいどういことなんだろうってよくかんがえてたんです。
で、わたしが思ったのは実はこれ〈宗教をしてないんじゃないか〉っていうことです。
ほんとうに宗教をしようと思ったり、宗教行為をしようとおもったら、お祈りをする、とかそうした具体的な行為をスルとおもうんですよ。〈宗教〉っていうのは〈文学〉とおなじようにあくまでカテゴリーなので。
小説を書こう、とは思っても、よし文学しよう、とは思わない。
それは文学も宗教もカテゴリーだからですよね。人間をしよう、みたいなものです。
だからわたしが思った山中さんの歌のみそは、語り手は宗教をぜんぜん知らないなかで宗教をしようとしている。その〈信〉にこそ、語り手の唯一無二の〈宗教〉があるということです。
それは語り手だけが信じられる、信じることのできる語法から生まれる宗教なんです。だれがなんといおうと。
で、上の平岡さんの「悲しい」もそうなんじゃないかなっておもうんです。
「悲しいだった 悲しいだった」という「悲しい」では使えない語法をつかっています。
「悲しかった」では、ない。
これも、だから、語り手はたぶん「悲しい」を知らないんです。一般的に流通している「悲しみ」を体験したことがない。だから、語法が使えていない。
でも、それでもみずからの語法のなかで「悲しい」と発話しようとするときに、語り手だけの「悲しい」が発現している。
もっと根本的にいうと、〈語法〉というのはひとつの〈宗教〉であり、あらかじめ所与のものとしてある〈三越のライオン〉です。
でも、じぶんにとっての〈宗教〉的感情や、〈かなしみ〉は、既存の語法=宗教ではいいあらわせないことがある。
だからひとはときに、みずからの〈宗教〉をしたり、みずから発明した〈かなしみ〉をしなくてはならない。
宗教したり、かなしいだったり、しなくては、ならない。
宗教やかなしいをしないかたちで。
「お墓って石のことだと思ってた?穴だよ、穴」洗濯機をのぞきこむ 平岡直子
【宗教をするかなしいだった】
以前このブログで、山中千瀬さんの「行ったきり帰ってこない猫たちのためにしずかに宗教をする」の感想文を書かせていただいたことがあって、そのあともその山中さんの歌をときどき思い出しては「宗教をする」っていったいどういことなんだろうってよくかんがえてたんです。
で、わたしが思ったのは実はこれ〈宗教をしてないんじゃないか〉っていうことです。
ほんとうに宗教をしようと思ったり、宗教行為をしようとおもったら、お祈りをする、とかそうした具体的な行為をスルとおもうんですよ。〈宗教〉っていうのは〈文学〉とおなじようにあくまでカテゴリーなので。
小説を書こう、とは思っても、よし文学しよう、とは思わない。
それは文学も宗教もカテゴリーだからですよね。人間をしよう、みたいなものです。
だからわたしが思った山中さんの歌のみそは、語り手は宗教をぜんぜん知らないなかで宗教をしようとしている。その〈信〉にこそ、語り手の唯一無二の〈宗教〉があるということです。
それは語り手だけが信じられる、信じることのできる語法から生まれる宗教なんです。だれがなんといおうと。
で、上の平岡さんの「悲しい」もそうなんじゃないかなっておもうんです。
「悲しいだった 悲しいだった」という「悲しい」では使えない語法をつかっています。
「悲しかった」では、ない。
これも、だから、語り手はたぶん「悲しい」を知らないんです。一般的に流通している「悲しみ」を体験したことがない。だから、語法が使えていない。
でも、それでもみずからの語法のなかで「悲しい」と発話しようとするときに、語り手だけの「悲しい」が発現している。
もっと根本的にいうと、〈語法〉というのはひとつの〈宗教〉であり、あらかじめ所与のものとしてある〈三越のライオン〉です。
でも、じぶんにとっての〈宗教〉的感情や、〈かなしみ〉は、既存の語法=宗教ではいいあらわせないことがある。
だからひとはときに、みずからの〈宗教〉をしたり、みずから発明した〈かなしみ〉をしなくてはならない。
宗教したり、かなしいだったり、しなくては、ならない。
宗教やかなしいをしないかたちで。
「お墓って石のことだと思ってた?穴だよ、穴」洗濯機をのぞきこむ 平岡直子
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