【感想Ⅱ】広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
- 2014/12/17
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広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼
【ブニュエルと三鬼】
三鬼のこの句について感想文を書いてから、先日ある方とまたお話をさせていただいて、その方の話をきいているうちに、じぶんでもあらためてまたかんがえたことなのだが、「広島や卵食ふとき口ひらく」という句は、「口ひらくとき卵食ふ」ではないのがとても大事なようにおもう。
「口ひらく」を下5にもってくることによって〈ひらく〉という行為に力点が置かれる。
そのとき、その〈ひらく〉ものが〈食べる〉とちがって、傷口のようにイメージされる。
それは摂取したり流入させたり取り込む〈食べる〉ではない。そういった→としてのベクトルでは、ない。
それは、上と下に〈ひらく〉ことなのである。入る、のではない。ひらく、のだ。
この〈ひらく〉には身体がひらく際のイメージの系列として〈傷〉も入ってくるし、生まれ出てくる〈膣口〉のイメージとしての生命の〈ひらく〉もある(『モンティ・パイソン』で冷蔵庫から出てきたエリック・アイドルがでたらめな手術で夫を亡くした奥さんに、宇宙のことを考えてごらん、すべてが大したことじゃなくなるから、と歌うギャラクシー・ソングのような)。
そうした生と死のイメージを同時に、しかし分割する統合化できない〈痛み〉とともに発現するのが〈ひらく〉である。
ここで思い出すのが、ルイス・ブニュエルが監督をし、サルバドール・ダリが脚本を書いたシュールレアリスム映画『アンダルシアの犬』だ。
その映画ではシュールなシーンがたくさんでてくるけれど、眼をかみそりですうっとひらく鮮烈なシーンがある。三鬼の句を映像化しているようなシーンだ。
そこには、傷つけられえない場所への傷がある。
眼球の傷としてのひらき。広島の傷としてのひらき。
可塑性をもたない加熱した卵のような不可逆としての傷。
食べるときに、傷つくときに、生まれるときに、生まれないときに、ひらくときに、(ブニュエルの眼球が傷つけられるイメージを想起するだけでどこか身体に痛みが走るように)共に感じざるをえない(しかい不可能性としての)〈受苦〉や〈共苦〉が、ある。
それが「広島や」のあとに切れ字として〈切断〉されて、つづかないかたちで、つづいていく。
「広島」と発話するたびに、わたしたちはその言説でなにかを〈ひらく〉のだけれども、しかしそれはどこまでも「卵食ふとき」のように個人的な言説である。そう、ならざるをえない。
でもそうした個人的な言説の限界を再帰的に自覚するところしか〈ひらく〉は行いえなのではないか。
そんな、ふうにおもう。
比喩のない世界で茹でている卵 瀧村小奈生
受けとってしまう大きな口あけて 久保田紺
ブルデューなら日本の政治文化における「象徴資本」とよんだかもしれない広島がどのように仕えているかを検証する事。対抗ヘゲモニーの言説のシンボルとしての広島はどのように戦後の国家主義イデオロギーに横領されるようになったのか、原爆投下の表象はいかに国民の自己表象と自画像を形成してきたのか
米山リサ『広島 記憶のポリティクス』
【ブニュエルと三鬼】
三鬼のこの句について感想文を書いてから、先日ある方とまたお話をさせていただいて、その方の話をきいているうちに、じぶんでもあらためてまたかんがえたことなのだが、「広島や卵食ふとき口ひらく」という句は、「口ひらくとき卵食ふ」ではないのがとても大事なようにおもう。
「口ひらく」を下5にもってくることによって〈ひらく〉という行為に力点が置かれる。
そのとき、その〈ひらく〉ものが〈食べる〉とちがって、傷口のようにイメージされる。
それは摂取したり流入させたり取り込む〈食べる〉ではない。そういった→としてのベクトルでは、ない。
それは、上と下に〈ひらく〉ことなのである。入る、のではない。ひらく、のだ。
この〈ひらく〉には身体がひらく際のイメージの系列として〈傷〉も入ってくるし、生まれ出てくる〈膣口〉のイメージとしての生命の〈ひらく〉もある(『モンティ・パイソン』で冷蔵庫から出てきたエリック・アイドルがでたらめな手術で夫を亡くした奥さんに、宇宙のことを考えてごらん、すべてが大したことじゃなくなるから、と歌うギャラクシー・ソングのような)。
そうした生と死のイメージを同時に、しかし分割する統合化できない〈痛み〉とともに発現するのが〈ひらく〉である。
ここで思い出すのが、ルイス・ブニュエルが監督をし、サルバドール・ダリが脚本を書いたシュールレアリスム映画『アンダルシアの犬』だ。
その映画ではシュールなシーンがたくさんでてくるけれど、眼をかみそりですうっとひらく鮮烈なシーンがある。三鬼の句を映像化しているようなシーンだ。
そこには、傷つけられえない場所への傷がある。
眼球の傷としてのひらき。広島の傷としてのひらき。
可塑性をもたない加熱した卵のような不可逆としての傷。
食べるときに、傷つくときに、生まれるときに、生まれないときに、ひらくときに、(ブニュエルの眼球が傷つけられるイメージを想起するだけでどこか身体に痛みが走るように)共に感じざるをえない(しかい不可能性としての)〈受苦〉や〈共苦〉が、ある。
それが「広島や」のあとに切れ字として〈切断〉されて、つづかないかたちで、つづいていく。
「広島」と発話するたびに、わたしたちはその言説でなにかを〈ひらく〉のだけれども、しかしそれはどこまでも「卵食ふとき」のように個人的な言説である。そう、ならざるをえない。
でもそうした個人的な言説の限界を再帰的に自覚するところしか〈ひらく〉は行いえなのではないか。
そんな、ふうにおもう。
比喩のない世界で茹でている卵 瀧村小奈生
受けとってしまう大きな口あけて 久保田紺
ブルデューなら日本の政治文化における「象徴資本」とよんだかもしれない広島がどのように仕えているかを検証する事。対抗ヘゲモニーの言説のシンボルとしての広島はどのように戦後の国家主義イデオロギーに横領されるようになったのか、原爆投下の表象はいかに国民の自己表象と自画像を形成してきたのか
米山リサ『広島 記憶のポリティクス』
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