【お知らせ】「【B面/松岡瑞枝を読む】それでもすべてをとどめおくために お別れに光の缶詰を開ける」『週刊俳句 第400号』
- 2014/12/21
- 00:59
『週刊俳句 Haiku Weekly第400号』にて、小津夜景さんにご一緒させていただくかたちで文章を載せていただきました。『週刊俳句』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました。
小津夜景「【A面/鴇田智哉を読む】なにもとどめおかないために」
柳本々々「【B面/松岡瑞枝を読む】それでもすべてをとどめおくために」
小津夜景「【ライナーノーツ】呻く。降っても、晴れても。」
『週刊俳句』通巻400号、おめでとうございます。
『週刊俳句』『ウラハイ』あわせてバックナンバーを少しずつ時間をみつけては過去へと過去へと読み進めているのですが、〈俳句〉を交錯点とするさまざまな織物としての記事から、たくさんの勉強をさせてもらっています。
俳句を接点として多種多様な位相の文章が一堂に会しているのが、『週刊俳句』のひとつの魅力なのではないかと、おもいます。
書く〈主体〉の基準点を一義的につむがないということ。つねに書く〈主体〉が相対化されてあること。
〈週刊誌〉という多声性の魅力はそんなところにあるようにも、おもいます。
今回は、小津夜景さんからすてきなご提案をしていただき、夜景さんの文章とコラボレーションするかたちで、感想文を書かせていただきました。
去年は、『週刊俳句』で夜景さんの記事を読ませていただくたびに、すごくおもしろい方がおられるなあと思っていたのですが、こうしたかたちでご一緒させていただくことができて、とてもうれしくおもいます。解題としてのライナーノーツも書いていただき、すてきなパッケージングもしてもらいました。
夜景さん、ありがとうございました!
夜景さんから文章をみせていただいて、その夜景さんの文章を起点にして、あるいはインスパイアされるかたちで、以前から取り組んでみたかった松岡瑞枝さんの句についての文章を自分なりに書いてみました。
ずっとデリダの〈亡霊〉のありかたはとても興味があったんですが、そうした〈亡霊性〉、意味を何度も決めようとするたびに決めえず、だからといって回避しようとしても非意味としてなんども回帰してくるようなもの、そうした意味でも非意味でもない〈場所化〉できない〈場所〉は、〈別離〉の際に、きわだって明滅するのではないか、とおもうんです。〈別離〉とは、たぶん、ただひとことこういうしかないような場所なんです。《わたしにはわからない》と。
たとえば、だいすきな母を亡くしたロラン・バルトは『喪の日記』を書きながら、そうした亡霊的主体としての〈わたし〉をなんとか〈痕跡〉化しようとしながらも、それができないかたちで、〈喪の作業〉に失敗しつづけていたのではないか。《まだ愛していたから》。
決定づけられないような、光、別れ、痕跡。
でも、そうした亡霊的主体を《あえて》ひとは生きなければならないことが、ある。
未決定の臨界で、はみだすことも、あふれだすことも、ふみこえゆくこともゆるされず、そのぎりぎりのラインを生き抜かなければならないときが、ある。生者でも、死者でもない、亡霊として。
でも、ひとは、それでも/にもかかわらず、そうした亡霊的主体でも、じぶんに呼びかけてくれるような、〈声〉にであうこともあるとおもうのです。
そうして、そのときに、みずからの〈声〉を〈決める〉ことが、たぶん、それからの亡霊的主体としての〈わたくし〉にとっての生の〈うめき〉になっていくのではないかと、おもうのです。
〈わたし〉は、なにを〈声=うめき〉として〈選びとる〉のか。その〈うめき〉をつないでゆこうとするのか。
次の〈あなた(you, 彼方)〉へと、どう、うめく、のか。
この〈黒い岸辺〉で。
黒い岸同じ目をした人に会う 松岡瑞枝
呻き——意味でも、非意味でも、ない言葉。今回私たちはこの私的/詩的言語をさまざまに捉えています。デリダの〈幽霊〉にはじまり、鴇田智哉の灰となった死者や松岡瑞枝の光の裏にある呻き、私たちが何かを願うことの呻き、それからクリスマスにちなんだ精霊や、亡霊や、ジェイコブ・マーレイや、ビル・マーレイ(『三人のゴースト』)や、その他多くのスクルージを呼び込むことのできる素敵なコラボになることを共に願いつつ。
小津夜景「【ライナーノーツ】呻く。降っても、晴れても。」
小津夜景「【A面/鴇田智哉を読む】なにもとどめおかないために」
柳本々々「【B面/松岡瑞枝を読む】それでもすべてをとどめおくために」
小津夜景「【ライナーノーツ】呻く。降っても、晴れても。」
『週刊俳句』通巻400号、おめでとうございます。
『週刊俳句』『ウラハイ』あわせてバックナンバーを少しずつ時間をみつけては過去へと過去へと読み進めているのですが、〈俳句〉を交錯点とするさまざまな織物としての記事から、たくさんの勉強をさせてもらっています。
俳句を接点として多種多様な位相の文章が一堂に会しているのが、『週刊俳句』のひとつの魅力なのではないかと、おもいます。
書く〈主体〉の基準点を一義的につむがないということ。つねに書く〈主体〉が相対化されてあること。
〈週刊誌〉という多声性の魅力はそんなところにあるようにも、おもいます。
今回は、小津夜景さんからすてきなご提案をしていただき、夜景さんの文章とコラボレーションするかたちで、感想文を書かせていただきました。
去年は、『週刊俳句』で夜景さんの記事を読ませていただくたびに、すごくおもしろい方がおられるなあと思っていたのですが、こうしたかたちでご一緒させていただくことができて、とてもうれしくおもいます。解題としてのライナーノーツも書いていただき、すてきなパッケージングもしてもらいました。
夜景さん、ありがとうございました!
夜景さんから文章をみせていただいて、その夜景さんの文章を起点にして、あるいはインスパイアされるかたちで、以前から取り組んでみたかった松岡瑞枝さんの句についての文章を自分なりに書いてみました。
ずっとデリダの〈亡霊〉のありかたはとても興味があったんですが、そうした〈亡霊性〉、意味を何度も決めようとするたびに決めえず、だからといって回避しようとしても非意味としてなんども回帰してくるようなもの、そうした意味でも非意味でもない〈場所化〉できない〈場所〉は、〈別離〉の際に、きわだって明滅するのではないか、とおもうんです。〈別離〉とは、たぶん、ただひとことこういうしかないような場所なんです。《わたしにはわからない》と。
たとえば、だいすきな母を亡くしたロラン・バルトは『喪の日記』を書きながら、そうした亡霊的主体としての〈わたし〉をなんとか〈痕跡〉化しようとしながらも、それができないかたちで、〈喪の作業〉に失敗しつづけていたのではないか。《まだ愛していたから》。
決定づけられないような、光、別れ、痕跡。
でも、そうした亡霊的主体を《あえて》ひとは生きなければならないことが、ある。
未決定の臨界で、はみだすことも、あふれだすことも、ふみこえゆくこともゆるされず、そのぎりぎりのラインを生き抜かなければならないときが、ある。生者でも、死者でもない、亡霊として。
でも、ひとは、それでも/にもかかわらず、そうした亡霊的主体でも、じぶんに呼びかけてくれるような、〈声〉にであうこともあるとおもうのです。
そうして、そのときに、みずからの〈声〉を〈決める〉ことが、たぶん、それからの亡霊的主体としての〈わたくし〉にとっての生の〈うめき〉になっていくのではないかと、おもうのです。
〈わたし〉は、なにを〈声=うめき〉として〈選びとる〉のか。その〈うめき〉をつないでゆこうとするのか。
次の〈あなた(you, 彼方)〉へと、どう、うめく、のか。
この〈黒い岸辺〉で。
黒い岸同じ目をした人に会う 松岡瑞枝
呻き——意味でも、非意味でも、ない言葉。今回私たちはこの私的/詩的言語をさまざまに捉えています。デリダの〈幽霊〉にはじまり、鴇田智哉の灰となった死者や松岡瑞枝の光の裏にある呻き、私たちが何かを願うことの呻き、それからクリスマスにちなんだ精霊や、亡霊や、ジェイコブ・マーレイや、ビル・マーレイ(『三人のゴースト』)や、その他多くのスクルージを呼び込むことのできる素敵なコラボになることを共に願いつつ。
小津夜景「【ライナーノーツ】呻く。降っても、晴れても。」
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