【短歌】密室で…(かばん新春題詠2014「お題:探偵」2014年3月号 18点)
- 2014/03/31
- 05:04
密室で青空をみる探偵にのびやかに来よ春の殺人
(かばん新春題詠2014「お題:探偵」2014年3月号 18点)
【鈴木牛後さんの短歌の感想-探偵と絶対-】
今回のかばんの新春題詠でいちばんの得点歌(42点)は、鈴木牛後さんの「探偵の百人住んでゐる村の尾行はつひに円環となる」だった。
わたしもはじめて読んだとき、とてもおもしろいなと感じた歌だったのだが、この歌のひとつのおもしろさは「探偵はひとり」という鉄則を裏返している点にあるんじゃないかとおもう。つまり、探偵という絶対的な視線を有する人間が「百人」として全体化することによって、すべての視線は絶対的なまま相対化され、視線の強度があればあるほどゼロになるのだ。
円環とは、ゼロでないものとして他につながりつつも、他につながりつつある運動のせいでゼロを演じざるをえない永劫回帰のことだ。
しかも探偵が「都市」ではなく「村」でひしめきあっているというのがとても重要なのではないかと思う。なぜなら村は完結したシステムをつくりやすいからである。しかしその完結したシステムが、外部からの村人でない〈探偵〉の参入によっていつ壊れてしまうかもしれない緊張感がある。だからこの円環は絶対ではない。潜在的崩壊をはらんだ絶対的循環なのである。たぶん。
【かばん歌会でいただいたコメントからかんがえてみる-漏洩する密室-】
わたしの歌は、かばんの歌会で「日頃密室に閉じ込められているような鬱屈とした思いと、そのため事件が来ることを願ってしまう主体を感じる。思春期の少年または少女か」というコメントをいただいて、なるほどと納得して読んだ。
いただいたコメントから、わたしがいま思うのは、完璧な密室というのはなくて、密室はかならずどこかで外部に漏れ出している、だから、どんな密室にじぶんがいようともかならずその密室は(よい密室であれ、わるい密室であれ)、破綻するのではないかということだ。
つまりどこかで密室の破綻を「願ってしまう」語り手がいる、というそれはこういううただったのではないだろうか、と。
【探偵・榎木津礼二郎のみる青空-内部としての外部-】
京極夏彦の書く京極堂シリーズという妖怪ミステリがあるのだが、その物語で榎木津礼二郎という探偵がでてくる。
かれが物語で演じる役割は、〈みること〉である。語ることでも、解く=説くことでもなく、〈みること〉。しかも、物理法則を無視して過去を透視することもできる。
つまり、〈(本来的には)みえないことを・みること〉が探偵としての榎木津礼二郎の役割なのだが、そういった探偵のキャラクターを出したことによって、京極堂シリーズの世界の密室は物理的には破綻することとなる。
しかし、肝心なのは、物理的に密室が破綻してもこころの密室、ことばによって構築された密室はそうかんたんに破綻しないということだ。
その〈檻(おり)〉と〈理(ことわり)〉を京極夏彦は〈妖怪〉として変奏しながら描きつづけることによって、生きていくうえで直面せざるをえないあたらしい密室を提示しているようにおもう。
密室はどこかで破綻し、漏洩している。でも、ことばで構築された〈こころ〉の密室はそうかんたんには破綻しない。しかし破綻しないからこそ、ひとはことばをもちい、その密室の間隙をさぐる。
おい、〈ここ〉に漏れてる青空はないのか、と。
【青空の系譜-岡崎京子と青・空-】
わたしの歌にかんするコメントで、「この歌のように青空に閉じ込められるという感覚を詠うことが、近年の短歌に増えているかもしれない」という興味深い指摘があった。
「隠喩としての青空の系譜」、または「表現史における表象としての青空」をかんがえてみるのはきょうみぶかい試みになるかもしれないとおもう。
ちなみに、わたしは、いつも、青空といえば、岡崎京子の、思いも、比喩も、直喩も、ことばも、なにも吸収しない、はねつけるような、ドライな青空をおもいうかべる。包容力のない、まっさらな、なににも溶け込まない、しかしそれはかたくなにそこにある、あおぞら。
(岡崎京子『リバーズ・エッジ 愛蔵版』p177・宝島社)
(かばん新春題詠2014「お題:探偵」2014年3月号 18点)
【鈴木牛後さんの短歌の感想-探偵と絶対-】
今回のかばんの新春題詠でいちばんの得点歌(42点)は、鈴木牛後さんの「探偵の百人住んでゐる村の尾行はつひに円環となる」だった。
わたしもはじめて読んだとき、とてもおもしろいなと感じた歌だったのだが、この歌のひとつのおもしろさは「探偵はひとり」という鉄則を裏返している点にあるんじゃないかとおもう。つまり、探偵という絶対的な視線を有する人間が「百人」として全体化することによって、すべての視線は絶対的なまま相対化され、視線の強度があればあるほどゼロになるのだ。
円環とは、ゼロでないものとして他につながりつつも、他につながりつつある運動のせいでゼロを演じざるをえない永劫回帰のことだ。
しかも探偵が「都市」ではなく「村」でひしめきあっているというのがとても重要なのではないかと思う。なぜなら村は完結したシステムをつくりやすいからである。しかしその完結したシステムが、外部からの村人でない〈探偵〉の参入によっていつ壊れてしまうかもしれない緊張感がある。だからこの円環は絶対ではない。潜在的崩壊をはらんだ絶対的循環なのである。たぶん。
【かばん歌会でいただいたコメントからかんがえてみる-漏洩する密室-】
わたしの歌は、かばんの歌会で「日頃密室に閉じ込められているような鬱屈とした思いと、そのため事件が来ることを願ってしまう主体を感じる。思春期の少年または少女か」というコメントをいただいて、なるほどと納得して読んだ。
いただいたコメントから、わたしがいま思うのは、完璧な密室というのはなくて、密室はかならずどこかで外部に漏れ出している、だから、どんな密室にじぶんがいようともかならずその密室は(よい密室であれ、わるい密室であれ)、破綻するのではないかということだ。
つまりどこかで密室の破綻を「願ってしまう」語り手がいる、というそれはこういううただったのではないだろうか、と。
【探偵・榎木津礼二郎のみる青空-内部としての外部-】
京極夏彦の書く京極堂シリーズという妖怪ミステリがあるのだが、その物語で榎木津礼二郎という探偵がでてくる。
かれが物語で演じる役割は、〈みること〉である。語ることでも、解く=説くことでもなく、〈みること〉。しかも、物理法則を無視して過去を透視することもできる。
つまり、〈(本来的には)みえないことを・みること〉が探偵としての榎木津礼二郎の役割なのだが、そういった探偵のキャラクターを出したことによって、京極堂シリーズの世界の密室は物理的には破綻することとなる。
しかし、肝心なのは、物理的に密室が破綻してもこころの密室、ことばによって構築された密室はそうかんたんに破綻しないということだ。
その〈檻(おり)〉と〈理(ことわり)〉を京極夏彦は〈妖怪〉として変奏しながら描きつづけることによって、生きていくうえで直面せざるをえないあたらしい密室を提示しているようにおもう。
密室はどこかで破綻し、漏洩している。でも、ことばで構築された〈こころ〉の密室はそうかんたんには破綻しない。しかし破綻しないからこそ、ひとはことばをもちい、その密室の間隙をさぐる。
おい、〈ここ〉に漏れてる青空はないのか、と。
【青空の系譜-岡崎京子と青・空-】
わたしの歌にかんするコメントで、「この歌のように青空に閉じ込められるという感覚を詠うことが、近年の短歌に増えているかもしれない」という興味深い指摘があった。
「隠喩としての青空の系譜」、または「表現史における表象としての青空」をかんがえてみるのはきょうみぶかい試みになるかもしれないとおもう。
ちなみに、わたしは、いつも、青空といえば、岡崎京子の、思いも、比喩も、直喩も、ことばも、なにも吸収しない、はねつけるような、ドライな青空をおもいうかべる。包容力のない、まっさらな、なににも溶け込まない、しかしそれはかたくなにそこにある、あおぞら。
(岡崎京子『リバーズ・エッジ 愛蔵版』p177・宝島社)
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