【感想】砂浜で君はまぶしく年老いる春のマフラーきらきら濡れて 堂園昌彦
- 2014/05/14
- 15:27
砂浜で君はまぶしく年老いる春のマフラーきらきら濡れて 堂園昌彦
【きらきらとしての老い・生・いま、ここ―きらきらの系譜―】
「秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは」にもみられるように堂園さんの短歌にとって〈ひかり〉というのはひとつのモチーフにもなっているのではないかとわたしはおもうんですが、堂園さんの歌集が〈ひかり〉としての〈きらきら〉を介して『歌集 やがて秋茄子へと到る』という縦軸だけではなく、横軸としての他の短歌とどう響きあっていくのかということにも以前から興味がありました。
ここではあえて「きらきら」ということばにすこし注目してみたいとおもいます。
うえにあげた堂園さんの短歌は「まぶしく年老いる」というふうに、語り手にとっては「年老いる」ことが〈輝き〉として認識されていることがわかります。その認識は下の句までそのまま接続され、「きらきら」としての「マフラー」を見出します。
この「きらきら」は「濡れて」「きらきら」しているというのがおそらく大事なんではないかなとおもうんです。なぜなら「濡れて」という結語をおいたことにより、それは〈一時性〉の「きらきら」になるからです。海に近い「砂浜」という場所としての限定と、かつ「濡れ」たという状態としての限定における「きらきら」なんです。しかも「春の」という時間も限定されています。もちろん「マフラー」それ自体もかんがえてみると限定的な服飾です。年中はきません。つまりこの短歌は「まぶしく年老いる」という〈老い〉という生の時間すべてがそうであるような永続的な時間を「砂浜で」「春のマフラー」「濡れて」といった限定的な時間によってまわりをかためていくそういった永遠性を刹那的な時間のなかにかこいこんでいく短歌ではないかとおもうんです。そこで「きらきら」がいっそう「きらきら」するのではないかとおもうのです。それは一回性としてのいま、ここでしか語り手が目撃することができない「きらきら」です。しかしだからこそその一回性の「きらきら」によって語り手が認識が変わる経験をし、つまり老いとは永遠的なものかつ刹那的ものでもあるんだという認識にいたったその転換と点綴を描いているのがこの短歌なのではないかとおもうんです。
それではこの堂園さんの短歌の「きらきら」が他の短歌とどのように接続しているのか、堂園さんの短歌からどのようなきらきらの地平が見いだせるのか、すこしかんがえてみようとおもいます。
短歌における「きらきら」をすこし恣意的に抜き出してみます。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 佐藤りえ
窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった 穂村弘
堂園さんの短歌の「きらきら」が「きらきら」の一回性によって語り手の認識が変わるその瞬間の表象だとするならば、うえの二首の「きらきら」も「帰れなくなる」「すべてをゆるす」というように、語り手の劇的な変換が同時にセットされています。もちろん、恣意的に抜き出したものなので、「きらきら」はもっと複雑かつ多様だとおもいますが、とりあえずひとつの「きらきら仮説」として、「きらきら」とは語り手の劇的変換とともにセットされるものではないかということはできないでしょうか。
短歌における「きらきらの系譜」。いつか読んでみたい系譜のひとつです。
【きらきらとしての老い・生・いま、ここ―きらきらの系譜―】
「秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは」にもみられるように堂園さんの短歌にとって〈ひかり〉というのはひとつのモチーフにもなっているのではないかとわたしはおもうんですが、堂園さんの歌集が〈ひかり〉としての〈きらきら〉を介して『歌集 やがて秋茄子へと到る』という縦軸だけではなく、横軸としての他の短歌とどう響きあっていくのかということにも以前から興味がありました。
ここではあえて「きらきら」ということばにすこし注目してみたいとおもいます。
うえにあげた堂園さんの短歌は「まぶしく年老いる」というふうに、語り手にとっては「年老いる」ことが〈輝き〉として認識されていることがわかります。その認識は下の句までそのまま接続され、「きらきら」としての「マフラー」を見出します。
この「きらきら」は「濡れて」「きらきら」しているというのがおそらく大事なんではないかなとおもうんです。なぜなら「濡れて」という結語をおいたことにより、それは〈一時性〉の「きらきら」になるからです。海に近い「砂浜」という場所としての限定と、かつ「濡れ」たという状態としての限定における「きらきら」なんです。しかも「春の」という時間も限定されています。もちろん「マフラー」それ自体もかんがえてみると限定的な服飾です。年中はきません。つまりこの短歌は「まぶしく年老いる」という〈老い〉という生の時間すべてがそうであるような永続的な時間を「砂浜で」「春のマフラー」「濡れて」といった限定的な時間によってまわりをかためていくそういった永遠性を刹那的な時間のなかにかこいこんでいく短歌ではないかとおもうんです。そこで「きらきら」がいっそう「きらきら」するのではないかとおもうのです。それは一回性としてのいま、ここでしか語り手が目撃することができない「きらきら」です。しかしだからこそその一回性の「きらきら」によって語り手が認識が変わる経験をし、つまり老いとは永遠的なものかつ刹那的ものでもあるんだという認識にいたったその転換と点綴を描いているのがこの短歌なのではないかとおもうんです。
それではこの堂園さんの短歌の「きらきら」が他の短歌とどのように接続しているのか、堂園さんの短歌からどのようなきらきらの地平が見いだせるのか、すこしかんがえてみようとおもいます。
短歌における「きらきら」をすこし恣意的に抜き出してみます。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 佐藤りえ
窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった 穂村弘
堂園さんの短歌の「きらきら」が「きらきら」の一回性によって語り手の認識が変わるその瞬間の表象だとするならば、うえの二首の「きらきら」も「帰れなくなる」「すべてをゆるす」というように、語り手の劇的な変換が同時にセットされています。もちろん、恣意的に抜き出したものなので、「きらきら」はもっと複雑かつ多様だとおもいますが、とりあえずひとつの「きらきら仮説」として、「きらきら」とは語り手の劇的変換とともにセットされるものではないかということはできないでしょうか。
短歌における「きらきらの系譜」。いつか読んでみたい系譜のひとつです。
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